次回日程

  • 12月22日(日)
  • 11月13日(水)~ 12月05日(木)
  • 筆記
  • 全国主要4都市

国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑪


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.11 なおなお「孫文のいた頃」

 

前回、慶応4年・明治元年(1868年)(明治への改元は98日)の「神仏判然令(313日)」を考えたいという話をしました。孫文の初来日より1世代、30年前のことです。やはり、孫文がいた当時のことを考えて行くと、その時代の大本である明治維新にまで遡らざるを得ず、そうなると、直接、孫文とは関係はありませんが、どうしても気になるのがこの「神仏判然令」です。

 

学校教育ではあまり重要視して教えられていないようにも思うのですが、それは明治元年(1868年)の「神仏判然令」で、これにより「廃仏毀釈」の動きがおこり、例えば隠岐では100余りあった寺がすべて無くなり、奈良興福寺では2,000体以上の仏像が破壊されたとあります。そして、この動きとどう関係するのか、私はまだよくわかっていないのっですが、一方、勢力を持っていたはずの神社側も、1906(明治39)年「神社合祀令」により、神社の統合にまで繋がっていきます。孫文の友人の南方熊楠はこの「神社合祀令」に反対してその翌年1907年に「神社合祀反対運動」を起こしますが、例えば和歌山県に3,713社あった神社が1911(明治44)年には790社になっています。

 

天皇を中心とした立憲君主国として、欧米化を目指した明治政府の考え方(国家神道?)が影響しているように思うのですがそれがどんな影響を日本に与えたのか、次回、その辺りから考えていきたいと思います。

 

これはこのコラムの1つのテーマである「新国民国家建国の理念と国民教育」にまた繋がっているように思います。

No.10 なお「孫文のいた頃」

 

さて、ここで連載コラムの本筋にもどり、その趣旨を確認します。

今からわずか120年程前、明治維新で混乱中の日本も、旧体制のなかで喘いでいた孫文も、何に対峙していたかと言えば、単純に「当時の欧米列強」でした。(勿論、日本はどのような政府を作っていくのか?そして孫文の場合は清朝という旧体制をどのようにしていけばよいのか?という基本的な問題もありましたが…)そしてその「当時の欧米列強」に呑みこまれないため、日本国は、その建国理念も含めて右往左往し、それを参考に新しいよりよい体制を作ろうとしていたのが清朝末期の志ある革命家達であり、その時代が「孫文のいた頃」です。

 

実際、120年後の今も、日本も中国もまだ、そのような維新、革命未だ成らざる運動の途中であるのかもしれません。

 

ここに、その当時、明治8年(1875)の混乱の中、その混乱を冷静に分析していた学者がいました。わずかな文章の中「人心騒乱」が何度も出てきます。

 

「この人心騒乱の事跡に見われたるものは,前年の王制一新なり,次で廃藩置県なり。以て今日に及びしことなれども,是等の緒件を以て止むべきに非ず。兵馬の騒乱は数年前に在て既に跡なしと雖ども,人心の騒乱は今尚依然として日に益々甚しと云うべし。蓋しこの騒乱は全国の人民文明に進まんとするの奮発なり。我文明に満足せずして西洋の文明を取らんとするの熱心なり。故にその期する所は,到底我文明をして西洋の文明の如くならしめて之と並立するか,或はその右に出るに至らざれば止むことなかるべし。而して彼の西洋の文明も今正に運動の中に在て日に月に改進するものなれば,我国の人心も之と共に運動を与にして遂に消息の期あるべからず。実に嘉永年中米人渡来の一挙は恰も我民心に火を点じたるが如く,一度び燃えて又これを止むべからざるものなり。

 人心の騒乱斯の如し。世の事物の紛擾雑駁なること殆ど想像すべからざるに近し。この際に当て文明の議論を立て条理の紊れざるものを求めんとするは,学者の事に於て至大至難の課業と云うべし。」―中略― 「特に願くは後の学者,大に学ぶことありて,飽くまで西洋の諸書を読み,飽くまで日本の事情を詳にして,益所見を博くし益議論を密にして,真に文明の全大論と称すべきものを著述し,以て日本全国の面を一新せんことを企望するなり。」

「文明論之概略」(1875年)福澤諭吉(岩波文庫)

 

多少乱暴に要約すれば「西洋文明」(欧米列強)とかかわらざるをえず、日本に大混乱が起こっているが、その大混乱収拾のためにも、その「西洋文明」と対等に渡り合えるよになるためにも、「西洋文明」を学習し、「日本の文化」を振り返り、新しい「日本」を作っていかなければならない…ということでしょう。

 

さて政府も含めた、大混乱、人心騒乱で、勿論、欧米列強に対抗できる日本となるべく、新体制の正当化もあり、発布されたのが「神仏判然令」慶応43月(1898)でした。

 

そのきわめて大雑把な概略を挙げようと思ったのですが、それを語るには、その前の神道と仏教の歴史も整理しておかないとならなくなってしまいました。ご存じの方々には迂遠・面倒に感じられるかもしれませんが、すみません、しばらくお付合い下さい。

 

神道と仏教を「判然」とする。分ける、分離するという法令が出されました。ということはそれ以前は、「神仏混淆」『神道』(日本の土着宗教、土俗)と6世紀頃に入ってきた外来宗教・哲学である『仏教』が時間をかけてゴチャゴチャに融合していたのが常態でした。

 

■「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」と明治以前

「この稿を書いているとき、新聞(1988年7月4日付・大阪読売夕刊。「日本人の文化水準」…宗教意識)のなかで、山本七平氏が話しておられるのをおもしろく読んだ。その話というのは、日本の “宗教混淆” についてである。

 すこし拝借すると “僧侶が儒教を説いたり(註・室町期の儒教は禅僧が担った)神社のご神体が仏像やお経だったり(註・平安期以降、江戸期の終末までつづいた神仏習合)して、まことに諸宗教が混在している” というのである。

 山本さんの論旨は、そういう宗教混淆は決して日本人のマイナス点でないという。むしろそういう日本人の寛容性が何にもとづいているのかを知りたがっているヨーロッパの知識人が多いという。

 以下のことは、よくいわれていることである。

 神道という言葉は仏教が入ってきてから、この固有の精神習俗に対して名づけられたものだが、奈良朝のころは、隋・唐ふうの国家仏教に圧倒されて、ややさびれた。

 そういう時期、神々を救うために考えられたのが、奈良朝末の本地垂迹説だった。

 まことに絶妙というべき論理で、本地とは、普遍的存在のこと。つまり仏(ぶつ)・菩薩のことである。そういう普遍的存在が、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)するために日本の固有の神々に姿を変えている、という説である。

 そういう論理によって仏教化した神々が、権現(ごんげん・権<かり>に現す)とか明神(みょうじん)とかよばれるようになった。たとえば伊勢神宮の神は大日如来が本地であり、熊野権現は阿弥陀如来が本地であるとされた。

 このように神仏が集合したために、明治以前、有力な神社では、社僧がお経をあげていた。ときには、山本さんがいうようにお経が神体になったりもした。」―「中略」―

 古神道は、ほとんど宗教的戦慄といえるほどに死や罪などのけがれを甚だしくおそれた。一方において特定に山や場所、樹木などを聖なるものとして敬した。

 いわば、敬することが(ときに、それのみが)古神道だったといってもいい。

 神道という言葉の文献上の初出は『日本書記』の用明天皇(540-87)の紀に「天皇仏法ヲ信ジ、神道ヲ尊ス」とあるのがそうだとされている。右の文章の場合も、仏教に対しては宗教用語としての “信” が用いられ、神道については尊敬の尊が用いられているのが、印象的といえる。

― 「この国のかたち」第2巻-31「ポンぺの神社」司馬遼太郎(文春文庫)

 

明治以前は「神仏混淆」でした。しかも奈良期、欽明天皇の時に入り、受入れられた仏教は、その後「国家仏教」、仏教による鎮護国家となって、聖武天皇(701-756)、みずからが率先して東大寺の大仏を建立し、国分寺、国分尼寺を全国に建立したのでした。

 「体系的な思想としては、華厳経だけで、それも奈良時代でも遅い時期に入った。―世界はこうだったのか。というほどのおどろきを人々にあたえた。聖武天皇がこの経に接し、華厳世界の中心的な存在である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を「大仏」と「大仏殿」のかたちにして造営したのも、はじめて “体系” に接したことの興奮のあらわれであったといっていい。

― 「この国のかたち」第2巻-30「華厳」司馬遼太郎(文春文庫)

 

そして一方、本来、古俗であった「神道」は経典があるわけでなく論理的な言語で説明するものではなかったということです。

「『万葉集』巻13の3253に、『葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国は神(かむ)ながら言挙(ことあ)げせぬ国』という歌がある。他にも類似の歌があることからみて「言挙げせぬ」とは慣用句として当時普通に存在したのにちがいない。「神ながら」という言葉は、“神の本性のままに” という意味である。「言挙げ」とはいうまでもなく論ずること。

神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性としてー“神ながらに”―生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。

― 「この国のかたち」第5巻-99「神道(七)」司馬遼太郎(文春文庫)

 

■江戸後期の「国学」本居宣長と平田篤胤

しかしその後、中世になり神道も仏教、儒教等のさまざな影響を受け「能弁・多弁」になっていき、顕著な変化は江戸後期、本居宣長の国学に影響をうけた平田篤胤から起こります。

「神道という無言のものに思想的な体系をあたえた最大に功労者は江戸後期の国学者平田篤胤(ひらたあつたね・1776-1843)であった。―中略― 篤胤は国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである。かれは『古事記』を分解し組み立て直した。海のような『古事記』の記述の中から最高神を取り出し、そのもとでの創造神も見つけ得た。創造の機能には産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した。

―同上

 

司馬遼太郎は多少の皮肉も込めて上記、平田篤胤を本来体系的ではないはずの「神道」に「思想的な体系をあたえた功労者」と表現しています。そしてこの「平田国学」が、徐々に日本近海に現れだした諸外国の「外国船」に対する不安と警戒ともあいまって、当時の日本に普及・浸透していきます。

 

■「平田国学」(幕藩体制ではない「日本」の発見)の普及・浸透

「一般に草創期の思想は独創的なだけに、板でいえば面がざらつき、小矛盾が多い。篤胤の説もそうで、表現も雅俗とりまぜ、野卑なにおいもなくはなかった。

 篤胤の死後の “平田国学”の人達が、これを滑らかにしたような観がある。原点を変えたのではなく、原典のなかの怪異な部分を彼の死後の門人達はあまり語らず、また篤胤が不得意として歌学に造詣のある人が多かった。

 ひとつには、平田国学を奉ずるひとびとが、江戸後期の第三の知識層ともいうべき地方の富農・富商階級に多かったことによる。つまり平田国学の受容者たちが旦那の風をもって温雅な印象を世間に与えたのである。

 なによりも、かれら富める苗字帯刀層にあたえた感動は、平田国学によって幕藩体制の中で初めて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである。

―同上

 

■「平田国学」と「尊王攘夷思想」

ここまで来ると「尊王攘夷」まであと一歩です。別に良し悪しではありませんが、「仏教」からは決してこの思想は出てきません。

「嘉永6年(1835)ペリー来航後、諸藩に “鎖国を堅持せよ” という派がふえ、幕末の争乱期が始まる。やがて “尊王攘夷” が、討幕派の合言葉になった。この言葉そのものは朱子学にゆらいしていたが、平田国学を奉ずる旦那衆の「日本観」と割符が合うように合った。

 彼らの多くは、奔走家たちの保護者になった。その典型として、たとえば下関の富商白井正一郎がある。彼は四方の志士に援助をし、とくに高杉晋作の資金源になるなどして家産を蕩尽した。維新後、かれに報いられたのは、下関の赤間宮の神官という職だったのが、なにごとかを象徴している。本来、平田国学の人達は政治的なたくましさにかけていた。」

―同上

 

■「平田国学」と明治政府と「国家神道」

やっとここまできました。この明治新政府から「神仏判然令」であり「廃仏毀釈」が始まります。

「明治政府(太政官政府)は、古風にも神祇官を設け、3年余で廃された。この短命だった役所に “平田国学” の徒を多く収容し、幕末以来の功にむくいた。やがて神社が国家神道に転換した時、平田国学は捨てられた。国家神道の教義にするにはあまりに宗教臭がつよかったのである。

 国家神道になった神社は内務省の管轄下におかれ、ほとんど官庁同然になり敗戦まで続いた。

 平田国学のほうも、歴史のなかのものになった。

 しかし、神社はのこっている。やはり神道は言挙げせぬこそ、ふさわしいのかもしれない。

―同上

 

やれやれ、幕末から明治初期の「神仏判然令」、「廃仏毀釈」を考えてみたかったのですが、必要なことではあると思い司馬遼太郎を延々と引用し、助けられながら「神道・仏教・国学の歴史」を遡っていたら、その「とば口」に辿り着いたところで紙面尽きてしまいました。次回は当然、「神仏判然令」発令以降について考えてみたいと思います。

 

以上

2022年5

 

 

追記

でも、多少の未練で、もうちょっと語りたいので少し付け加えます。

 

「歴史においてとりわけ最も目立つのは、事態を二者択一に追いこんで、誤った方針を性急粗雑に実践してしまったときである。

 明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。

 日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」ないしは「神仏並存」という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。」

「千夜千冊(1185夜・『廃仏毀釈百年』佐伯恵達著)」松岡正剛・2007年5月22日

 

歴史的事象において「決定的な過ち」という断定的判断はなかなか難しいものがありますが、この「神仏分離・廃仏毀釈」についてはそうであったように思います。

それが何であったかを、上記で松岡正剛が適確に表現しています。「神仏習合」が長い間、歴史的、伝統的に当然であったにもかかわらず、明治国家建設のため「神道・仏教」を2者択一し、鎮護国家仏教の時期もあったはずの仏教を「外来物」であるとし、神道は日本固有のものであるとして、性急粗雑に「神道国教主義」として実践してしまった、ということでしょう。

三輪山

「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」より

「例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山はすでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。三輪山はだだ一瞬一瞬の嵐気(らんき)をもって、感ずる人にだけ隠喩(メタファ)をもって示す。」

― 「この国のかたち」第5巻-99「神道(七)」司馬遼太郎(文春文庫)

 

No.10 なお「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.12 重ねて「孫文のいた頃」をみるlist-type-white