国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑬
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.13 重ね重ね「孫文のいた頃」
さて、前回は「神仏判然令(1868年)」とそれに伴う「廃仏毀釈」の事例を挙げ、それに続く「国家神道」の成立の過程を見てみました。今回はそれに反動する仏教、特に浄土真宗からのリアクションについて考えてみることを予告しました。しかし、下記にあるように、確かに廃仏毀釈は収束するのですが、浄土真宗の反撃に移る前に、この2022年の現在も影響を与えている「国家神道」についてもう少し考えみたいと思います。
ここでお断りしておきたいのは、私は日本の美しい伝統であり、文字通り神仏混淆で営々と受け継がれてきた「天皇制度」を否定するつもりは全くありません。この「天皇制度」についてはどこかできちんと考えてみたいのですが、今は、明治期に「急造せざるを得なかった国家神道」とその影響、そしてその陰りが残っているのならどうしたらよいのか?ということについてもう少し考えてみたいと思います。
「その後、廃仏毀釈は収まった。それでもいったん施行された神仏分離令がのこしたシステムは、そのまま国家神道として機能しつづけた。」
No.12 重ねて孫文のいた頃
「千夜千冊(1185夜・『廃仏毀釈百年』佐伯恵達著)」松岡正剛・2007年5月22日
明治初期の、かなり無理のある「神仏判然令」と「国家神道」でした。この「国家神道」の出現について、以下の説明がわかりやすいように思います。明治11年(1878)の大久保利通暗殺以降、明治政府の中心人物となり大日本帝国憲法起草をしていく伊藤博文(1841-1909)について語っています。
何故、無理にでも一神教のような「国家神道」の政策をすすめざるを得なかったのか、ということについての、宗教学者の山折哲雄(1931-)と司馬遼太郎(1923-1996)のNHKの録画対談の一節です。1995年6月20日、3時間半にわたってほぼ休みもなく行われたということです。因みに司馬遼太郎逝去半年前のことです。
「―山折
明治になって、ヨーロッパ文明が日本にもどっと入ってきますけれども、その段階で、宗教に関する国家の政策が新しくつくりあげられます。その時、一番重要な役割を果たした人物が、私は伊藤博文だろうと思っています。
伊藤博文がヨーロッパに行って、政治、経済、宗教、文化のいろいろなシステムの勉強をして帰国し、明治近代国家の青写真を描きはじめるわけですが、その時彼は、ヨーロッパの近代社会を支えているのはキリスト教であるということに気づく。それが最重要の精神の基軸だということを言うわけです。そのヨーロッパ近代社会を支えているキリスト教にあたるものを日本のこれからの国家社会の中につくりだしていくにはどうしたらいいだろうか。
そういう発想で憲法をつくっていったのだろうと思います。
その時に、伊藤博文が、たしか枢密院かどこかで演説しているのですが、ヨーロッパの近代社会におけるキリスト教に当たるようなものは、もう日本の伝統的な宗教にはないというのです。仏教はその力をもっていない。神道も既にそういう権威を失っていまっている。そして、それに代わるものとして結局、皇室の問題を持ち出してくるわけですね。
そこで「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之を統治ス」という例の明治憲法(明治22年2月11日・1889年公布)の第1条が出てくるのだろうと思います。
その時、伊藤博文は、日本の伝統的な宗教には、もはや宗教的な権威なんかないのだと考えているわけですが、そういう考えが出てきたのは、ヨーロッパのキリスト教がもっている圧倒的な影響力の大きさというものが前提としてあったからだと思います。
そういう一神教的なキリスト教を基準にして、彼は同時代の日本の伝統的な宗教を見ていた。つまり汎神論的といいますか、無神論的な日本の神仏信仰は、とてもキリスト教に対抗できるものではないと考えて、なんとかそれに対抗するものをつくりだそうとした。ここに明治憲法成立の動機があったのではないか。そのような思想の出発点に立つのが、どうも伊藤博文ではないかと私は思うのです。
その後、日本の知識人というか、日本の指導層というのは、多かれ少なかれ、みんなこの思想の影響を受けて、今日まで来てしまった。それが今日における漠然とした日本人の無神論的な心情と共鳴している。そういうものとどこかで繋がっているのではないかと思うのですね。
―司馬
いや、その話は重要ですね。
伊藤博文がそう思ったというセンス。つまりヨーロッパの各国、いまでもスウェーデンやデンマークを思い出していただければわかることですが、ほとんどの古い国の国旗が十字ですね。だから、国家の基礎の中に、つまり “圧搾空気” のようにして地盤があって、それがキリスト教で、その上に国家という ”屋台” が立っている。
その国家という ”屋台” は地面にベッチャと基礎工事もせずに立っているものではないのですね。
キリスト教的な倫理観および気分の上に国家が立っているということです。
伊藤博文はよく考えたと思うのです。彼が、その時に「萬世一系ノ天皇」というものを考えざるをえなかったのは、日本の近代の苦しみだろうと思います。「萬世一系ノ天皇」ということだけでは、やはり明治20年代にはまだ思想化できていないので、そのへんにある神道を ― 国家神道にもう既にしつつありましたが ― 国家神道にするということは、神道というものを、結果として、われわれの心から離れさせてしまった。国家神道に仕上げられた神道も気の毒なのですが、キリスト教に代わる “圧搾空気” にしようとしたのですね。
これはもう普遍性もなにもないものにしてしまった。
それは確かに明治の時に、明治維新という「革命」に宗教が参加したのは、わずかに平田篤胤の国学でした。これが神道になっていくわけですが、平田篤胤の国学までは国家神道よりはるかにいいのですが、生物として―生物といってもバクテリアもあればウィルスもあるのですけれどもー、無機化して国家神道になる。それから西本願寺が少しは個人として参加しているぐらいのものでした。
宗教家たちは、みな明治維新をただ座視しているだけでした。
それがまずかったですね。
―山折
そうですね。
「日本とは何かということ・『宗教と日本人-自然のなかの神と仏』」
司馬遼太郎・山折哲雄(1997年3月・NHK出版)
私は勿論、「天皇制度」は日本の大切な伝統であり慣習であると考えます。ただ、その美しい伝統に性急に「西欧風の建国理念としてのキリスト教」に対抗させるべく「国家神道」の役割を持たせざるを得なかったところが当時の悲劇ということなのでしょう。司馬遼太郎にしては冷たい言い方で「宗教家たちは、みな明治維新をただ座視しているだけでした。」とありますが、当時の欧米列強を知らない日本の宗教家達としてはどうしようもない部分でもあり、そもそもそういう形で「宗教」をとらえてはいなかったでしょう。或る意味当然のことですが、キリスト教の “God” を全く異なる概念である日本語の「神」と訳さざるをえなかったところから始まる問題でもあります。自分達の言う「信心」に似ているようでありながら ”religion” とは何か?から考えなくてはいけなかったわけです。
しかし、結局、私も、日本にとっての司馬遼太郎の言う “圧搾空気” が気になっています。そして我が敬愛する「天下爲公・三民主義」の孫文にしてもその “圧搾空気” をどのように考えてきたのか?ということこそが、このコラムで延々と歴史を辿りながら右往左往しながら考えていることのもっとも根底にある部分です。
“圧搾空気” とは、欧米諸国がキリスト教を根底成立しているとして、それならば一方、日本の中国の、あるいはアジア諸国の「国家建国の基盤となる宗教・哲学・倫理観」のことであり、勿論それがあってのことですが、その先に、2022年の現在ならば「より普遍的な他の国々から ”理解される” 日本の基盤となる宗教・哲学・倫理観」のことです。
まあ、宗教、哲学といわなくても、簡単に言えば「日本とはどういう国か?」ということであり、それを日本でどう教育し、そしてそれをどうのように世界に対して説明、アピールしていくのか?という問題です。以下、山折哲雄と司馬遼太郎は「ヨーロッパ文明を成立させている根底にあるキリスト教」と「日本の伝統宗教」の歴史的な違いについて言及します。
「―山折
ところが、明治以降はどうも、西欧の眼差しで日本の伝統宗教のやってきたことを見るようになりました。そういう認識の転換のようなものが、とくに明治以降の知識人、指導層のあいだにおこったように思います。
そもそも宗教というのは、あれかこれかという基準によって選択するものだという考えが主流をなすようになります。いずれかの宗教体系を、主体的に選ぶものなのだという、―そういうキリスト教的な考え方ですね。そういう態度を無批判に受入れたわけです。
ところがそれに反して、わが国の伝統的な信心の世界、つまり神も仏も信ずる生き方をあれもこれも、という無原則的な信仰であるときめつけてしまったのではないでしょうか。西欧の宗教にたいして日本の伝統宗教をマイナスに評価してしまうことに、それがつながったというわけです。
これが辛いところなのですね。
―司馬
辛いところですねえ。実際に辛いところですねえ。
ですが、やはり歴史的に見れば、ヨーロッパの場合は、カトリックはローマに本部(ヴァチカンのことです)を置いてーそしてまだローマ・カトリックの時代が続いているのですけれどーはじめはばかにされながら、伝道を行っていて、だんだんローマ帝国の国教になっていくときに、カトリックにより(国民の)飼い馴らしが、ずいぶん進んだのだろうと思います。
この基本の上にヨーロッパの社会が成立したのだろう。そういうひとつの見方からすれば、同じ言葉になりますが、日本は宗教を飼い馴らしの道具として用いたことがない。これは繰り返しになりますが、そのように言えそうですね。
だから、どうも倫理の基準としての宗教というのは、仏教は倫理が非常に低い次元に置かれてー低いというのは、倫理はどうでもいいという意味ではなくて、キリスト教のように倫理観をやかましく言わなかったこともありますけれどー飼い馴らしをしてうまくいったことがないというのがいまのごちゃ混ぜの、宗教の万屋(よろずや)みたいな社会になってしまったのでしょうかね。
「日本とは何かということ・『宗教と日本人-自然のなかの神と仏』」
司馬遼太郎・山折哲雄(1997年3月・NHK出版)
宗教と政治の究極の問題でもあり、単純に「政教分離」が当然・自明であると言い難い部部でもあります。そしてこの後に、山折哲雄と司馬遼太郎は、それならば、神道にしても仏教にしても、その根底にあるものは何であるのかを論じ、日本の風土(台風、洪水、地震等)が人間に与えた「無常観」であると、勿論「無常観」は仏教の核心の一つですが、それがこの国の風土によってより鮮明になったのではないか、とここでは結論します。
「―山折
ご承知のように、仏教はじつにさまざまな思想、つまり大思想がたくさん含まれておりますけれど、その中で、日本人がいちばん自然に、そして深く受容したのが仏教の無常観だったとわたしは思います。
―中略―
―司馬
無常観ですねえ。それを寺田さん(寺田寅彦・1878-1935)は物理学者として適確に「天然の無常」であると言ってる。つまりそれは、教えられずして、日本列島の地理的環境が生んだものである、というようにおっしゃっているのは、すごいことですね。
―山折
そうですね。それは先生がおっしゃった「高貴な汎神論」と言ってもいいですね。「淡泊な無私の精神」と言いかえてもいい。ただ、いまお話に出ております「無常観」といったようなものを、どのように一般的な言語で表現するかということが、実は大切な問題なのですね。
こういうものがわれわれの宗教観の根底にはあるのだと、それを、どういうふうに言ったらいいのか…。
―司馬
つまり国際語というか世界の言語に翻訳できるように、言えないものかと思うのですね。
―山折
そこなのですね。そこがきちんと言えないと、結局、思っているだけで形をなさない、何もありませんという、消極的で妙な返答になってしまうわけですね。
―司馬
そうです。英語やアラビア語や中国語に翻訳できる言葉として、われわれは自分自身についての説明をしなければいけない。それをいま、吉田松陰や寺田寅彦の例を、あるいは正岡子規の例をもってきたら、向こうはもう聞かないでしょう。ひと言でわかる言葉を、われわれは、やはり考えなければいけませんね、われわれ自身の説明として。
―山折
そうですね。それができたとき、初めて明治維新以降の、倒錯したわれわれの自己認識が回復されるのではないかという気がします。
―司馬
そうそう。それができたら大きいですね。
たしかに明治維新以後、少し歪だった。憲法ももったー憲法をもつということはステート(State)になることですからーステートというは、たんなるネイション(Nation)自然にそこにある国ではなくて、法による国になったわけですからね。それが明治20年か21年のころでした。そういう国ですけれども、実に近代は歪んでいて、苦しくて、結局、いまでも苦しんでいる。
それをわれわれは、これはこれで宗教の具体的な、つまりコントロール(飼い馴らし)によらずに、こうやって無事に暮らしているわけです。たとえば具体的に「あなたの宗教は何ですか」と私が何教だと言われても、何教かわからない。何宗だと言っても、私にそういうものはない。われわれは概して、そうですね。
しかし、べつに大過なくこうやって暮らしていることは、やはり千年、二千年の先人の積み重ねの末にいるのだろうと思いますね。それが寺田さんがおっしゃった重要なことであり、和辻さんがおっしゃったように、そこへ倫理観までももってくるということも重要なことですね。
そして明治の知識人のひとりとして、正岡子規はだれにも迷惑をかけずに死の病気に堪えて、大きな仕事を残したわけですね。
そういうことをひと言で表せる、日本人の説明としての宗教的な「説明言葉」というのか言語表現があらねばならないですね。
―山折
そう思いますね。これからの課題だと思いますね。
―司馬
これができたら、明治以後の私たちのややこしい算盤勘定は全部うまくいきますね。それでプラス・マイナス、それこそゼロになって、きれいなバランスシートがきます。
それはいままで気がつきませんでした。
「日本とは何かということ・『宗教と日本人-自然のなかの神と仏』」
司馬遼太郎・山折哲雄(1997年3月・NHK出版)
以上は、未だに我々日本人に影をおとしている「急造の国家神道」の弊害を否定するなら、では日本人の本質的宗教観、つまりは行動規範の根底にあるものは何であるのか?という問いに対する、これからの課題とは言いながらも、1つの答えです。この対談から25年以上が経過していますが、現在はどうなのでしょう?まだ解決されているようには思えませんね。
そして、伊藤博文や井上毅(1844-1895)が苦労した大日本帝国憲法(1889)はあの時点ではそうであらざるを得ず、でしかなかったのでしょう。そして勿論、司馬遼太郎も山折哲雄も「天然無常観・高貴汎神論」で憲法を見直すべきだとまでは言っていません。ただ、おおげさに言えばそういうことになるのではないでしょうか。私個人的には「9条」だけではなく、せめて「前文」も真剣に「天然無常観・高貴汎神論」の点から見直した方がよいとは思っています。
あともう1つ、宗教ではありませんが、日本人の行動規範の根底にあるものがありました。この司馬と山折の対談は「宗教と日本人」が中心であったので司馬はそれについて言及していませんでしたが。
(西郷は)できれば戦国期の島津氏の士人がもっていた毅然とした倫理性を全日本人のもつものにしたいという願望があった。西郷の征韓論がそれにつながるかどうかはともかく、かれが新国家の基盤に一個の高貴な原理性をすえようとした思想は、その後の日本国家がついに持たなかったものであった。
No.6 また「孫文のいた頃」
(司馬遼太郎「翔ぶが如く・3巻」―激突の章(文春文庫)
1972年1月~76年9月『毎日新聞』朝刊連載
司馬遼太郎がこの「翔ぶが如く」を書いてから25年の後の対談が上記です。ここで司馬は「武士道」という手垢のついた言葉は使用していませんが、この西郷の「島津氏の士人がもっていた毅然とした倫理性」も西欧文化の根底にある「キリスト教」に対抗できるものとして考えていたようです。
しかし次回こそ、廃仏毀釈にたいする浄土真宗の反撃について考え、もうひとつの “圧搾空気“ である、このいわゆる武士道はその次にします。
以上
2022年7月
追記:
「ところが、明治以降はどうも、西欧の眼差しで日本の伝統宗教のやってきたことを見るようになりました。そういう認識の転換のようなものが、とくに明治以降の知識人、指導層のあいだにおこったように思います。」
「日本とは何かということ・『宗教と日本人-自然のなかの神と仏』」
司馬遼太郎・山折哲雄(1997年3月・NHK出版)
今回のコラムNo.13の中で山折哲雄が語る部分ですが、簡単に言えば「翻訳」、正確には、「それまで概念として存在しなかった事柄」についての理解の難しさです。これはヨーロッパ文化と及びその他の多くの文化と日本文化の間の相互的な問題でしょう。例えば、「religion≒宗教」1つでも翻訳語として定着するまでに多くの学者が多くの訳語(信心、教法、法教、法門、宗旨、聖道…)が考えられ、それはもちろん、言葉選びというより、その「religion」の定義を理解する努力であり、依然としてあらゆる概念翻訳語は「≒」近似値(本人の理解力次第)ということでしょう。そして日本からの発信にしても「天然無常観・高貴汎神論」の先ず日本語での表現の問題、そしてそれを英語なりの外国語での表現、翻訳をその言葉のNatives と一緒になって考えていかなくてはならないということです。「バベルの塔」のエピソードが頭を過ります…
以下は政治思想史家・丸山真男(1914-1996)と評論家・加藤周一(1919-2008)の対談の中での丸山真男の言葉です。加藤周一が「翻訳主義を明治日本がとったことの功罪、その後の日本の文化にどういうプラスとマイナスをもたらしたか」と丸山にテーマを振り「それだけで、加藤さん、大論文ができるよ。」と始まります。
「複数と単数の区別がない、ということで思い出したのは民権のことです。「自由民権運動」は日本ではふつうの言葉だけれども、西洋人は訳すのに苦労する。いまでは “Freedom and people’s rights movement” という訳語が定着してしまったけれども、最初は非常におかしく感じるらしい。つまり、“people’s right” というのは無いんだね。”right” はあくまで個人の権利で、民権という意味にはならない。
そこに気がついたのは、またしても福澤諭吉なのです。民権とはいうけれど、人権と参政権を混同している、と福澤は言うんだ。人権は個人の権利であって人民の権利ではない、だから国家権力が人権つまり個人の権利を侵してはいけない、人民が参政権をもつべきだというのを民権というとき、そこには個人と一般人民の区別がない、と福澤は言った。その感覚はすごいね。集合概念としての人民の権利と、個々人の “individual” な権利。」
「翻訳と日本の近代」丸山真男・加藤周一(1998年10月・岩波新書)
たしかにこの問題1つとっても「大論文」のテーマということですね。まあ、明治をうまく想像しようとしているわけですが、何と尋ねるべき「登山口」の多いことか…と思ってしまい、とても私の手に負えるものでもないのがよくわかるので、いい加減やめますが、やはり気になります‥‥
明治神宮北参道・鳥居 2022年7月撮影
明治神宮は明治天皇と昭憲太后を御祭神として祀る神社で大正9年(1920)11月1日の創建です。明治天皇は明治45年(1911)7月30日に崩御され、その偉業を顕彰するために神宮の創建が決定され1915年から着工、延べ10万人の全国のボランティア青年団が参加し10万本の植樹による人口林がつくられ、100年以上経った現在では、さまざまな野鳥、オオタカ、ノスリまで生息し17万本の樹木が茂る広大な杜となっています。(あ、意外に勘違いされてる方もいらっしゃいますが明治天皇の御陵は京都伏見の桃山御陵で、明治神宮は明治天皇顕彰の神社です。)また、初詣の参詣者数は全国1位で300万人を越えます。
「明治天皇は嘉永5年(1852)京都で生まれ、父親の孝明天皇が亡くなると16歳で皇位についた。大政奉還を経て、時代が明治に改まると、旧江戸城を本拠とし、それ以降は、生涯東京で生活するようになる。明治天皇は東京よりも京都の方をはるかに好んでいたようだが、君主としてのつとめを果たすために東京に留まった。その点で、地方から東京に出てきて頑張って生活を続けている多くの東京都民(当時は府民)と共通した部分をもっていた。明治天皇が、東京の人々から慕われたのも、一つにはそうした背景があったからではないだろうか。
東京都民は自分たちの象徴を明治天皇のなかに見出し、だからこそ壮大な明治神宮の創建に力を入れた。そして、今日では明治神宮はまさに東京の氏神、鎮守の杜として定着し、東京都民の平安を司っているのである。」
「坊さんは、葬式などあげなかった」島田裕巳(2010年6月・朝日文庫)
個人的な話で恐縮ですが私は明治神宮が好きです。東京生まれの私は七五三のお参りは明治神宮でした。父は学校で東京に出てきた地方(長野県飯田市)出身者でしたから上記にあるような気持ちで息子の七五三に明治神宮を選んだのかもしれません。また浪人の時に明治神宮の近くの予備校に通っていたため、その当時も時にお参りもし杜を散策し、今でも、特に最近は明治時代(さらに特に、この森の植樹に参加した延べ10万人の当時の青年達…)を想いながら年に数回はお参り散策に行っています。