国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑭
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.14 なおかつ「孫文のいた頃」
No.13で「神仏判然令」、「廃仏毀釈」、「国家神道設立」にたいする仏教・浄土真宗の巻き返しについて、考えることを予告しました。浄土真宗の僧侶、島地黙雷が中心となり活動します。明治初期の仏教者として最も重要な人物だそうですが、私は恥ずかしながら知らなかったです。以下にこの時点までの彼の略歴を挙げておきます。
島地黙雷(しまじもくらい)(1838-1911) 長州の浄土真宗の寺の四男として生まれます。東本願寺から「仏教の立場の復権」を使命に東京に派遣された島地は同藩の木戸孝允(1833-1877)参議から信頼を得、その木戸の配下の伊藤博文(1841-1909)、井上馨(1835-1915)、山縣有朋(1838-1922)らとも関係を密にしていきます。 そして東本願寺からの指示により1年間近くの「海外教状調査」(海外の宗教の状況調査)へと派遣されます。本来「岩倉使節団」と同じ船で行く予定が遅れ明治5年(1872)1月に横浜を出発、香港、サイゴン、シンガポール、スリランカ、アデン、スエズを経由します。この間のアジア、非ヨーロッパ諸国を目の当たりに見聞したことも彼に様々な影響を与えます。 3月にマルセイユ、そしてパリに到着します。洋行した日本で最初の僧侶となり、帰国は明治6年(1873)でした。この「教状調査」の報告書には「海外、数十の宗教」を調べてきたとあり、また、「Religion」という言葉・概念に「宗教」という訳語を当てたのが島地黙雷でした。そして、その彼のヨーロッパ滞在中、そして帰国後、以下に記す「浄土真宗」からの巻き返しを行います。 |
キリスト教を強固な地盤とする欧米列強に対抗すべく「国の原理」をどこに求めるのか?という暗中模索の中の明治初期の一連の宗教についての動きをもう1度整理します。
■神祇官の設置と国家神道の確立への試み
「江戸時代までは、広い意味での神仏習合的な関係の中で日本の宗教は展開してきている。それが明治の初めに神仏分離がなされるというのが教科書的な説明です。そのときになぜ神仏分離がなされたかというと、明治維新というのが尊王攘夷の運動から出ていたもので、尊王攘夷の運動がナショナリズムの動向と絡んで神道と関係の深い運動だったからです。
特に平田派の復古神道の人たちがそれを推進する勢力として非常に大きな力になっていました。そこで神仏分離政策というのは、実際には、ただ分けるというだけではなく、それによって仏教を排除した形での神道を国教化するという意味合いをふくんでいました。その流れというは、いわゆる王政復古で古代の律令に帰るということで、同時に神祇官(じんぎかん)を復興するという政策を伴っていました。」
「日本仏教の可能性」末木文美士(2006年・春秋社)
ここでいう「神祇官」とは、文字通り8世紀の律令時代の、国家祭祀を司った、さまざまな部署のトップですが、それを復活させるわけです。今の我々の感覚では不思議な気もしますね。ちなみに『神祇』は『神』=天の神、『祇』=地の神です。
また、この「官」という名称ですが、我々には、例えば○○審査官等の職務名の印象が先ずありますが、この明治初期の「官」は行政機関名です。太政官、行政官、会計官、軍務官、等々の行政機関があり、1869年にはこの「神祇官」をトップにおき、一時的ではあるにせよ「政教一致・祭政一致体制」がとられ、その下に様々な「省」、民部省、大蔵省、外務省等がおかれていました。
■神祇官、神祇省の失敗とそれにかわる教部省の設置
「そういうわけで、神祇官を復興して神仏を分離し、そして神道を国教化するという方針をとるのですが、実質上それは必ずしもうまくいきません。古代の政治制度復活しようとしても、そんなに簡単にはいくわけがありません。
そこで、神祇官というのは間もなく神祇省に格下げされますが、神祇省も明治5年(1872)にはうまくいかず廃止しまして、かわりに教部省を設けます。この教部省を設置したときに政府の政策が大転換いたしまして、今までのように神道だけではやっていけないということになる。仏教は実際上非常に大きい勢力を持っているわけですので、その仏教を排除して神道だけを国教化しようとしても、そうはうまくはいかないということがわかりました。」
同上
■教部省(大教院・中教院・小教院)の設置 ― 仏教の参加・失地回復
「そこで、今度は仏教を巻き込み、仏教の側にも呼びかけて神仏を新たな形で統合する、一種の神仏習合的な政策をとろうとします。これを大教院政策といいますが、中央に大教院という、宗教を統合する中心施設をつくり、その下に地方に中教院、小教院を設けて、それぞれのところで宗教者を養成します。その宗教者を教導職(きょうどうしょく)というのですが、仏教の僧侶も神道の神官もすべて新しく国家で承認された宗教者として教導職になるという形で、その中で統合して国家的な新しい宗教をつくろうとするわけです。この大教院は初めは別の場所(紀州邸跡)にありましたが、やがて東京芝の増上寺に移されました。こうして新しい形で国家が宗教をすべて把握し、国家の統制下に宗教を置こうとする政策をとろういたします。」
同上
■国民教化のための宗教的教育者(教導者)育成
上記「教導職」とは国民に対して新しい「神仏習合的な国家宗教」を教えるための先生のことです。考え方によっては、欧米列強に対抗できる新国家建設のための当時の政府の涙ぐましい努力が感じられます。それがいかに奇妙なものであったかはちょっと想像すれば、いや想像すらしにくいかもしれませんね。ここで教義?の詳細は省略しますが、要するに天皇を中心とする国家体制を理論武装するための「神道よりの神仏混淆教」です。
「(大教院の)開院式(明治6年1月)にさいしては、烏帽子直垂(えぼし・ひたたれ)の神官と円頂法衣の僧侶がいっしょに祭儀にのぞみ、浄土真宗管長の大谷光尊は、法衣のまま柏手をうって降神の式をおこなった。こうして、僧侶も国家の公的活動の一部に参加することを認められたのではあるが、実態的には神道的様式に仏教側が無定見に迎合して「宛然タル一大滑稽者場」「真ノ妖怪集場」(島地黙雷)が出現したのであった。」
「神々の明治維新」安丸良夫(1979年・岩波新書)
立派な神主さんやお坊さんが一堂に会し、浄土真宗トップのお坊さんが豪奢な袈裟衣・僧衣で神主さんのようにパンパンと柏手を打って「かみさま」をお迎えしたということでしょう。それを政府は、また、一流のエライお坊さん達が数多くいらっしゃったと思いますが、彼らは何を想って大真面目にやっていたのでしょう・・・。さすがに島地黙雷は「一大滑稽者、妖怪集場」と、嘲笑していたようですが。それほどの混乱であったというわけです。さて、大教院設立について、文字通り滑稽でもあり、何か悲しくもあり、またそんな時期があったのかと不思議に駆られてつい長々と説明してしまいました。
ここで「大教院政策」の規模をイメージできるように下記に『教導職』の人数とその出身宗教、宗派を挙げておきます。それなりの人数がいますね。
明治13年(1880)における『教導職』の出身宗教・宗派別総人数 | |||
神道 | 21,421 | 黄檗宗 | 488 |
天台宗 | 4,754 | 浄土真宗 | 24,701 |
真言宗 | 9,406 | 日蓮宗 | 5,448 |
浄土宗 | 10,636 | 時宗 | 505 |
臨済宗 | 6,054 | 融通念仏宗 | 309 |
曹洞宗 | 16,713 | 総数 | 100,435 |
同上
明治12年に教部省は廃止ですから、上記は「教導者」の最終の人数でしょう。8割が仏教系出身で、仏教の中の3割が浄土真宗であったことがわかります。
■島地黙雷の大教院への批判
さて、島地黙雷が否定したのは勿論、「神仏習合的な国家宗教の不可思議な教義」もありましたが、何よりもその「政教一致」政策でした。彼がヨーロッパ視察で見てきたものは「政教分離」政策でした。
「この島地黙雷は当時、ヨーロッパに視察旅行に行って、ヨーロッパの宗教を見てくるわけです。そこで彼はヨーロッパの近代宗教は宗教の自由が確立していて、政府の政治的な力は宗教には及ばない、そういう形で信教の自由が成り立っているのだという現状を見ていた。ところが、大教院政策は結局は政治によって宗教を統制しようとしている。それでは本当の意味での宗教の自由は成立しないとして、大教院政策に正面から反対することになります。」
「日本仏教の可能性」末木文美士(2006年・春秋社)
■浄土真宗の離脱騒動と大教院、教部省の廃止
当初、浄土真宗も「国家宗教」に参加できるということで、教部省に参加しましたが、上記のように国家による宗教統制に反対します。また浄土真宗内部でも離脱派、非離脱派の争いも起こり大変な混乱が起こります。
「ついに明治8年(1875)4月、太政官は教部省に対してこう指令した。『神仏各宗が合併で教院を立てて布教してきたことは差し止め、今後は各自で布教すべし。』― この指令は、紛争を解決しようとしたものではない。もやは解決は無理と諦め、そのもととなった神道と仏教の合同布教という仕組みから破壊し、大教院ごと解散させてしまおうという措置である。浄土真宗の分離が許可されたのではない。分離がどうこうという論点自体を壊してしまったのである。つぎつぎと面倒ばかり起こす彼らに、政府も嫌気が差したのだ。大教院などさして役に立っていないのだから、それでもかまわぬと判断してのものだった。」
「島地黙雷」山口輝臣(2013年・山川出版)
結果、大教院の運営は不可能になり、上記指令が出され、明治8年(1875)に大教院が解散、明治12年(1879)には教部省自体が廃止となります。
「このように、新しい形で一種の神仏習合的な国家の宗教をつくろうとした動きは失敗しました。最終的にはそれが日本における宗教の自由、信教の自由の確立だと言われております。そのことは、明治22年(1889)に発布されました大日本帝国憲法において盛り込まれ、法的にも信教の自由が認められることになったわけです。
ところが、ここでいろいろな問題が残されることになります。1つは、そのとき認められた信教の自由というのはあくまでも公共の秩序を乱さない範囲で認められるということで、公共の秩序の方が優先されることになります。
それからもう1つは、ここでもう少し考えてみたい問題なのですが、信教の自由という形で仏教の信仰が認められた一方で、実は国家神道というものが次第に形づくられていくことになる。そういう構図をもっていたのです。」
「日本仏教の可能性」末木文美士(2006年・春秋社)
さて、ここでまた大問題が出て来ました。確かにこの後、歴史上、いわゆる「国家神道」が姿を現してきますが、それがどのようにこの「信教の自由という形で仏教の信仰が認められた」ことと関係してくるのでしょうか…。仏教、神道は今回までにして、次回は「新国家の基盤」になった可能性のある「武士道」ついて考えてみたかったのですが、どのように「国家神道」が形づくられていくのかは、大変大事なところです。次回はそれについて考えてみたいと思います。
以上
2022年8月
追記:
明治初期の宗教の混乱は、もっとも混乱は宗教だけではなかったのでしょうが、それにしても極めて複雑なものです。西洋諸国に倣って日本を建国していく過程で西洋諸国には「キリスト教」という背骨が通っていたからです。それに対抗できる「日本の宗教」を模索し、右往左往したわけですね。
私の浅薄な理解で上記のようなことなのですが、実際、幾つにも枝分かれしていて果てしなく、それらをちょっと辿るだけでも眩暈に襲われます。
さて、私は奈良が好きです。下記の写真を撮ったのはもう20年近く前になるかと思います。東大寺の南大門に向かって手前の右側辺りから撮った写真です。中央に見えている建物が「奈良春日野国際フォーラム・甍」で、その向こう、左が若草山で右が春日大社の杜です。私は勝手に、仏教と神道の境が見える場所であると思い、ここの場所が好きです。
この奈良を愛した文人に會津八一(1881-1956)がいます。歌人であり書家であり早稲田大学(會津八一記念博物館が大学構内にあります)では仏教美術史を教えました。私は彼の短歌も書も大好きです。大正13年(1924)に初の歌集『南京新唱』(なんきょうしんしょう)を発表します。「南京」はもちろん「なんきん」と発音して中国の南京市を意味しますが、「なんきょう」と発音した場合は、正確には平安京(京都)に都が移った後の平城京(奈良)のことになります。奈良仏教を「南都六宗」(なんとろくしゅう)と言ったりします。(従って、平安京(京都)はこの「南京」にたいして「北京(ほっきょう)」という名称もありました。)
「われ奈良の風光と美術とを酷愛して、其間に徘徊することすでにいく度ぞ。遂に或いは骨をここに埋めんとさえおもへり。ここにして詠じたる歌は、吾ながらに心ゆくばかりなり。われ今これを誦すれば、青山たちまち遠く巡り、緑樹甍に迫りて、恍惚として、身はすでに旧都の中に在るが如し。しかもまた、伽藍寂莫、朱柱たまたま傾き、堊壁ときに破れ、寒鼠は梁上に鳴き、香煙は床上に絶ゆるの状を想起して、蒼然これを久しうす。思うにかくの如き仏国の荒廃は、諸経もいまだ説かざりしところ、この荒廃あるによりて、わが神魂の遠くこの間に奪ひ去られるか。」
『南京新唱』序 會津八一・大正13年(1924)
天下の名文ですが、歌人だから歌を一首。
あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の
ほとけ の くち は もゆ べき もの を
『南京余唱』會津八一・大正14年(1925)
褪せたるを 人は良しと言ふ 頻婆果の
仏の口は 燃ゆべきものを
會津八一の和歌はすべて「ひらがな」で書かれています。万葉調の歌で、敢えて一文字、一文字の「本来の漢字」を「かな」に置き代えて、我々に、「音と意味」についての頭脳の作業を強要してくるような形式をとります。古代そのように歌を楽しんだのだというように、それを再現しているのかもしれません。
この聞きなれない「びんばくわ」の意味は、当時一部の仏教関係の専門家にしかわからなかったとは思いますが、しかし、全体から考えて、一般人でも「くわ」=「果」であろう、燃えるように赤い果実なんだろうということは類推できて、感動できたのではと思います。今風に言えば「イチゴのような唇」というところでしょう。
歌全体の意味は、「このお釈迦様の仏像ですが、色褪せたところが時代を感じさせて素晴らしいですね、とよく皆さん言いますが、本来のお釈迦様は、(非常に生き生きとしたとても魅力的な方であったはずで)その唇は燃えるような、瑞々しい赤い果実のような感じであったはずなのに…」というところでしょう。
會津八一は後に「自註鹿鳴集」を上梓し自分で下記にように註を付けています。
自註:びんばくわBinmba 頻婆果 印度の果実の一種にして、その色赤しといふ。経典には、仏陀の肉体的特徴として三十二相、八十種好を挙ぐる中に「唇色ハ赤紅ニシテ頻婆果ノ如シ」「丹潔ナルコト頻婆果ノ如シ」「光潤ニシテ丹暉ナルコト頻婆果ノ如ク上下相称フ」「赭果唇ヲ涵ホス」などいひ、略して「果唇」などいふ語も生じたり。
さてこの歌の心は、世上の人の古美術に対する態度を見るに、とかく骨董趣味に陥りやすく、色褪せて古色蒼然たるものをのみ好めども、本来仏陀の唇は、赤くして輝きのあるのがその特色の一つなるものを、といふなり。仏陀の形像を見るに、古木寒巌を以てよしとせざる作者の態度を示したるものなり。この歌を発表したる時、特に強く推賞の辞を公にしたるは、当時いまだ一面識だもなかりし斎藤茂吉君なりしなり。
-自註・鹿鳴集 昭和27年(1952)
話題は変わりますが、會津八一がこの歌を発表したのは大正14年(1925)、彼は斎藤茂吉と同年齢だから共に44歳でした。感動的なエピソードではあります。
また書も個性的で私は大好きです。秋艸道人(しゅうそうどうじん)は彼の号です
「逍遥一世之上 睥睨天地之間」(1953年)早稲田大学 會津八一記念博物館 絵葉書より