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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉑


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.21 雨でも「孫文のいた頃」

 

さて、少し整理します。前回、漱石の『行人』を扱い、オリジナルから延々と引用しましたが、ここで意図しているのは「夏目漱石の文学評論」ではありません。

 

そうではなく、欧米列強(キリスト教、資本主義、帝国主義)と出会った当時の日本が、明治維新を起こし、それら欧米列強に対抗しうる近代国家の建国を急いでいた中、「どこに日本の『(建国)基準』を置くか?置いたか?置くべきであったか?」という主題を中心に当時を改めて考えてみることでした。

 

さまざまな立場の人間が、さまざまな立場からその「基準」を考えました。それは「法律」であったり、「国家神道」であったり、「仏教の新しい解釈」であったり、「日本の伝統美術」であったりしました。

 

そんななか、今、このコラムでは、その時代のTOP知識人であり、江戸美意識・倫理観を深く受け継ぎ、英国に留学「西欧列強文化(文明)」と神経衰弱に到るまで真面目に相対峙した、「漱石 夏目金之助」の作品、書簡等を通して、当時を振り返えろうとしています。

 

前回は夏目漱石(慶応3年・1867‐大正5年・1916)の晩年の作品『行人(こうじん・ぎょうにん)』(大正元年・1912・12月6日~大正2年・1913・11月5日・朝日新聞に連載)の仏教の影響がかなり強いのではないか、という視点から始めて、『行人』から、例証としての引用をしながら、その点について考えてみました。

 

特に、前半の第3篇までは兄・一郎の妻・直が、弟・二郎を好きなのではないか?という一郎の嫉妬と疑心暗鬼を中心に展開していましたが、第4編になるとそれはもう出て来ませんでした。

 

まるで、読者を、誰もが関心をもつ「恋愛・嫉妬・疑心暗鬼ストーリー」で引き付けておいて(もちろん、それらも切実なテーマではありますが)、本当のテーマは下記にある、という構成にしている、とすら感じます。

 

そのテーマとは、兄・一郎の悩みは「自分自身も含めた存在そのものの無意味さに対する不安感」そしてそれを起因とする、「文明の進化・発展の無意味さ・それへの不安感」(目先の「早い方が便利」的な発想ではなく、早いこと、便利なことが、我々の「生」について、どのような問題であるのか?という)についてでした。

 

また、欧米文明が何世紀もかけて辿り着いた、「当時のグローバルスタンダード文明」を、安易にその結果だけを模倣、享受して怪しまない、「当時のほとんどの日本人と日本国家のあり方」、についての心配、不安でもありました。

 

No.19 暮れても「孫文のいた頃」』の江藤淳の評論の中に少し出てきましたが、漱石門下の鈴木三重吉(明治15年・1882‐昭和11年・1936)宛ての下記書簡があります。『草枕』を発表したばかりの頃、39歳の漱石から、24歳の鈴木三重吉への手紙です。

 

「只一つ、君に教訓したき事がある。是は僕から教へてもらつて決して損のない事である。

 僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものだと思ってゐた。旨いものが食へると思ってゐた。綺麗な着物がきられると思ってゐた。詩的に生活が出来てうつくしい細君がもてて。美しい家庭が出来ると思ってゐた。

 もし出来なければどうかして得たいと思ってゐた。換言すれば是等の反対を出来る丈避け様としてゐた。然る所、世の中に居るうちはどこをどう避けてもそんな所はない。世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうづまっている。そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イヤなものでも一切避けぬ、否、進んで其内へ飛び込まなければ何も出来ぬという事である。

只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすという事は生活の意義の何分の一か知らぬが矢張り極めて僅少な部分かと思う。で『草枕』の様な主人公ではいけない。あれもいいが、矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはいけない。

此点からいふと単に美的な文字は昔の学者が冷評した如く閑文字(かんもじ・無駄、無益な文章、言葉)に帰着する。俳句趣味は此の閑文字の中に逍遥して喜んで居る。然し大なる世の中はかかる小天地に寝転んで居るようでは到底動かせない。然も大いに動かさざるべからざる敵が前後左右にある。苟(いやしく・かりに)も文学を以て生命とするものならば単に美というだけでは満足が出来ない。丁度維新の志士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だろうと思う。間違ったら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う。文学者はノンキに、超然と、ウツクシがって世間と相遠ざかる様な小天地ばかりに居ればそれぎりだが、大きな世界に出れば只、愉快を得る為めだばかりとは云って居られぬ、進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思う。

君の趣味から云ふとオイラン憂ひ式でつまり。自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文学者だと澄まして居る様になりはせぬかと思ふ。現実世界は無論さうはゆかぬ。文学世界も亦そうばかりではゆくまい。かの俳句連虚子(正岡子規門下生、高浜虚子)でも四方太(正岡子規門下生、阪本四方太)でも此の点に於いてはまったく別世界の人間である。あんなのばかりが文学者ではつまらない。といふて普通の小説家はあの通りである。僕は一面に於いて俳諧的文学に出入りすると同時に一面に於いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜け文学者の様な気がしてならん。

破戒(島崎藤村の作品、19063月出版)にとるべき所はないが只此の点に於いて他をぬく事数等であると思ふ。然し破戒ハ未ダシ。三重吉先生、破戒以上の作ヲドンドン出シ玉へ。 以上。十月二十六日 鈴木三重吉様 夏目金之助」

明治39年・1906・10月26日(金)鈴木三重吉宛書簡(漱石全集第22巻・岩波書店)

 

虚子や四方太は「あんなのばかりが文学者ではつまらない」と、随分な言い方をされていますが、この短い手紙に「志士」の比喩が2回もでてきます。もちろん、弟子・鈴木三重吉の長所短所を考えて、このように、教え諭しているはずですが、その漱石が「表面的な恋愛の疑心・葛藤」だけをテーマに書いているはずがありません。

 

さて、『行人(こうじん・ぎょうにん)』では、上記、「自分自身も含めた存在そのものへへの不安感」、「西洋文明を安直に日本に取り入れること」への不安感と疑義、資本主義、帝国主義への疑義などがテーマで、その解決に「仏教の可能性」が見え隠れしていました。

 

ではいよいよ漱石の作品の中で一番評価されている『こゝろ』(大正3年・1914420日~同811日、朝日新聞連載)について考えてみましょう。

 

作品成立の概要、粗筋は以下です。前年の1115日に『行人』の連載を終え、ほぼ5ヶ月後、大正3年・1914420日から、この『こゝろ』の連載を開始、811日に終了しており、10月に単行本として岩波書店から出版しています。また装幀も漱石自身が行ったといいます。

 

「漱石に岩波茂雄を引き合わせたのは、安倍能成である。古本屋の開店当時、漱石に店の看板を書いてもらいたいから一緒に行ってくれと頼まれて、安倍は岩波を帯同して漱石山房を訪れた。そのとき漱石は即座に快諾し「岩波書店」と大書きした看板を揮毫したという。この縁を言い立てて、おそらく岩波は『心』の出版を強引に頼み込んだものと思われる。

 自費出版という形をとってまで、漱石が『心』の出版を岩波書店に委ねたのは、そうすれば自分で装幀ができるという愉しみがあったからに違いない。」

江藤 淳「漱石とその時代‐第五部」(新潮選書・平成11年・1999) 

 


左:漱石自ら装幀した初版 右:現在も岩波書店の漱石全集や文庫版に使用
文字は漱石自身が所有していた中国古代の石鼓文の拓本から

 

初版の上記「心 荀子解蔽篇 心者形之君也而神明之主也…」(心は形の君にして、神明の主なり)も意味ありげですね。少し調べてみました。「心」という文字の辞書の定義で、漱石が所有していた「康煕字典(清代につくられた漢字の字書。42巻。康煕帝の勅命により、張玉書、陳廷敬ら30人が5年を費やし1716年に完成した。十二支の順に12集(おのおの上、中、下あり)に分け、4万7035の字数を収める。・日本大百科全書)」からだということです。

 

荀子からの「心」の定義の引用自体はともかく、すぐに連想されるのは荀子の性悪説でしょう。

 

「人の性は悪、其の善なるものは偽なり。」― 荀子巻十七(性悪篇)

 

ここでの「偽」は「作為」天然のものではなく努力意識して作ったもの、の意です。「善は意識して作ったものである」という「典型的な性悪説」の考えです。漱石自身の装幀ですから、漱石はこの荀子の「心」で、この本の表紙を飾りたかったのでしょう。

 

さていよいよ「こゝろ」の内容に入ってきました。これまで「こころ」、「心」、「こゝろ」だったりしてきましたが、岩波版の全集では「心 先生の遺書」となっています。これら違いの詳しい考証は省略しますが、簡単に言い切ってしまえば、「心」とは「(本当の)自分」のことです。

 

以下、正式書名「心 先生の遺書」の粗筋とコメントです。

 

◆上 先生と私(1~36節)

   学生の私が鎌倉に海水浴に行き、海の家で、白人と一緒に居る「先生」を見かけ次第に仲良くなる。「先生」と呼んでいるが、世間との交流を断った、世捨て人のような職業をもっていない知識人。そして「先生」の自宅を訪問するようになり「先生の奥様・静」とも交流するようになる。しかし、「私」は次第に「先生」に「影」があることを感じ始め、それは「先生」の「過去」にかかわる重大なことのようで、しかし、それについて知ろうと質問すると「時期がきたら全て話す」としか回答を得ない。

 

◆中 両親と私(1~18節)

   「私」は大学を卒業(6月卒業、9月入学の学校制度の時期)し夏休みに帰郷する。父は病気療養中で息子の就職を楽しみにしており、母(御光)から云われて「私」は「先生」に就職斡旋の手紙を書くが返事は来ない。上京しようとした頃、父は危篤となり上京できないでいる中、先生から「会えないか?」の電報が届くが、父の危篤のため上京できない。しかしその後「先生」から大変分厚い手紙を受け取り、その手紙には、「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」というメッセージと共に、「先生」の過去が綿々と綴られていました。

 

◆下 先生と遺書(1~56節)

この手紙は「先生」から「私」に宛てた「遺言・遺書」のような内容になっています。その理由をこう表現しています。「私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから」まあ、漱石が、今の我々も含めた、彼の全読者に対して語っているようです。

 

「先生」からの手紙は「先生」の学生時代に遡ります。学生時代に両親を亡くし、叔父と遺産相続で揉めて人間不信になり厭世的になり、故郷を捨てることになります。しかし「先生」は下宿先の「奥さんとお嬢さん」に出会うことにより、当初は彼女たちも疑っていたが、徐々に打ち解けて人間への不信感は薄らいでいき、やがてそれがお嬢さんへの恋となっても、しかし依然その「他人への不信感・懐疑感」を引き摺ってはいました。

 

そんなところへ幼馴染の金銭的に困窮していた「K」を援助する意味で「私」の下宿に同居の誘いをします。

 

(この「K」が清沢満之(No.17さてさて「孫文のいた頃」、No.18明けても「孫文のいた頃」参照)のイニシャル「K」ではないか?という仏教学者の指摘から、この漱石の読み直しがはじまったのでした。)

 

K」は浄土真宗の寺の息子でした。「寺に生まれた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるように見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬していました。Kは中学にいた頃から,宗教や哲学とかいう難しい問題で私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分が生まれた家、即ち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのかはわかりません。ともかくも彼は普通の坊さんより遥かに坊さんらしい性格を有っていたように見受けられます。」

 

そしてこの「K」は長男ではなかったため医家に養子に行き、学費の援助を受け、本来、医学を勉強するべきところ、勝手に自分の興味のある宗教、哲学を勉強し、養家から怒りをかい勘当、実家に戻り、その実家からも勘当されます。「彼の父はいうまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い点において、むしろ武士に似た所がありはしないかと疑われます。」

 

上記の理由から「先生」と「K」の同じ下宿での生活が始まります。「Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。」

 

その修行者「K」に「先生」は「奥様やお嬢さん」にも協力してもらいもう少し社会性を与えようとします。「私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを否みはしません。しかし眼だけ高くって、外(ほか)が釣り合わないのは手もなく不具です。私は何を措いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。」

 

そしてその試みはある程度功を奏します。「今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。」しかし、一方でKのその生き方に対しては嫉妬を感じていました。「女の代表として私の知っているお嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬は、その時にもう充分萌していたのです。」

 

「先生」は「K」の取り戻してきた安定と自信が「お嬢さんへの恋」と関連しているのではと嫉妬心から疑い始めます。そして同時に、実は昔からあったのでしょうが、「K」の持つ「修行者的孤高な崇高観」に劣等感を感じ始めます。そして本質的な意味で、自分より優れている「K」と「お嬢さんへの恋」に於いて比較し、さらに劣等感を感じている中、遂に「K」から「お嬢さんへの恋」を打ち明けられてしまいます。その「K」の素直さにまた嫉妬しますが、「K」の求道精神、修行精神を利用して、策略として彼の「恋」(生き方)を否定します。「もし誰か私の傍に来て、御前は卑怯だと一言私語(ささや)いてくれるものがあったなら、私はその瞬間にはっと我に立ち帰ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私は恐らく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私を窘(たしな)めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、其処に敬意を払う事を忘れて、かえって其処に付け込んだのです。其処を利用して彼を打ち倒そうとしたのです。」

 

さて、今回だいぶ長くなってしまったので、少し急ぎます。その後の展開は有名なところですが、「先生」は「K」を出し抜いて「奥様」から「お嬢さん」との結婚を取り付け、その数日後、「奥様」から「K」に「先生」と「お嬢さん」の婚約を伝えられ、その2日後に「K」は自殺します。そして「先生」はその原因が「先生」の「K」への裏切り行為と考えます。

 

私が高校生の夏休みの課題として『こころ』の読書感想文を書いた時には、単純にこの時点での「先生」の立場からの理解、「親友の裏切りに対する失望」からの「自殺」と捉えていたと思います。しかも、漱石がわざと使った「自殺」という言葉にごまかされていただけの高校生でした。もちろん、「先生」からの手紙に「ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。」とあります。

 

まあ、昨今ではあまりに繊細なテーマではあり、気の弱い私としては、具体的に語るには気が引けるところもありますが、この「K」の「自殺方法」は「自刃(「Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。」)です。有名なエピソードですが、漱石が英語教師であった一高時代の生徒(藤村操)のように、華厳の瀧への「投身自殺」のような方法もあったはずです…詳しく調べてはいませんが、当時の「自殺」の方法の一般はおそらく「縊死自殺」か「入水自殺」であったのではと思います。

 

さて、今回、50年の後に読み返してみて、「K」の自殺の原因は「K」自身が「自分の修行(意志の力を養って強い人になる)の足りなさ」ということへの「ケジメ」の付け方。即ち、武士の「切腹・自刃」である、ということが言いたいために、上記、敢えて、「自殺の方法」という語り難いテーマを記しました。

 

「先生」が策略として並べた正論を、彼は、「余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良」と、「先生」は評していますが、それは「先生」の「K」に対する見誤りで、おそらく「先生」は「K」に相手にもされておらず(まあ、決して軽蔑ということでもないでしょうが、ごく普通の人間としてとらえられていた)、策略であろうとなかろうと、「K」は純粋に「修行・精進」を人生の中心におき、それが「お嬢さんへの恋」によりその「修行・精進」が乱され「自分の弱い(自己がふらついている)人間であるのが恥ずかしい」と感じ、その対応方法の結論として自殺(自刃・切腹)であったかと思います。(勿論、漱石は「自刃・切腹」などという語彙は使っていません。私がそんなコメントを述べるのはおこがましきの極地ではありますが「野分」(明治40年・1907)と較べるとその7年後に「芸術作品」として大変な進化をしているように思います。)

 

そして「先生」は何十年かかかって「K」の本意・本質をおそらく理解したのでしょう。「先生」が自殺の決心をする契機として「明治天皇崩御」と「乃木大将の殉死」があります。次回は、この辺りから「K=清沢満之」説も含めて考えたいと思います。

 

2023年3

 

追記

上記コラムに漱石から鈴木三重吉への手紙を引用しました。

 

鈴木三重吉は一般に、子供向けの童話・童謡の雑誌『赤い鳥』の創刊者として有名ですが、大学生時代から漱石の生徒でした。彼は、明治34年(1901)に東京帝国大学英文学科に入学します。そして、明治36年(1903)3月に前年暮に英国から帰ったばかりで、小泉八雲の後任として東京帝国大学英文学科の講師となった漱石に出会います。鈴木三重吉は中学生頃には、既に文学嗜好が強く、文芸雑誌等へ投稿、掲載されていたといいます。

 

その彼が明治39年(1906)3月に小説『千鳥』を書き上げ、漱石に原稿を送り、漱石は『千鳥』を激賞し、『ホトトギス』掲載のための推薦をします。(因みに上記コラムで引用した手紙はこの年の1026日です)

 

「御手紙も小説も届いて只今両方とも拝見『千鳥』は傑作である。― そこで『千鳥』を此の次の『ホトトギス』へ出そうと思ふが多分御異存はないだろう。」

鈴木三重吉宛の手紙・明治39年4月11日

 

「寺田寅彦が『千鳥』をほめて好男子万歳と書いて来た。四方太(正岡子規門下生、阪本四方太)が手紙をよこして四方太などは到底及ばない名文である傑作であると申して来た。僕もこれで鼻が高い。あれにケチをつけた虚子(正岡子規門下生、高浜虚子)は馬鹿と宣告してしまった。以上。

鈴木三重吉宛の葉書・明治39年5月3日

 

私も実は今回、初めてこの『千鳥』を読みました。美しい小品です。(「青空文庫」で簡単に読めるのでお勧めです。)また、これを読むと、コラムにある1026日の漱石から三重吉への教訓メッセージがより理解できます。

 

さて以降、漱石の門下としても活動していくわけですが、『赤い鳥』の創刊は大正7年(19187月で、漱石は残念ながら2年前に亡くなっていますが、果たして、『赤い鳥』は崇高な理念の基に創刊されました。天晴、志士の活動です。漱石が生きていれば喜んでくれたことでしょう。

 

童話と童謡を創作する・最初の文学的運動

 私は、森林太郎、泉鏡花、高浜虚子、徳田秋声、島崎藤村、北原白秋、小川未明、小宮豊隆、野上白川、野上彌生子、有島生馬、芥川龍之介の諸子を始め、現文壇の主要なる作家であり、また文章家としても現代第一流の名手として権威のある多数名家の賛同を得まして、世間の小さな人たちのために、藝術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する、最初の運動を起こしたいと思いひまして、月刊雑誌『赤い鳥』を主宰発行することに致しました。

実際どなたでも、お子さん方の読物には随分困ってお出でになるようです。私たちも只今世間に行われてゐる、少年少女の読物や雑誌の大部分は、その俗悪な表紙を見たばかりでも、決して子供に買って与える気にはなりません。こういう本や雑誌の内容は飽くまで功利とセンセイショナルな刺激と変な哀傷に充ちた下品なものだらけである上に、その書き表はし方も甚だ下卑てゐて、こんなものが直ぐに子供の品性や趣味や文章なりに影響するのかと思ふと、まことに、苦々しい感じがいたします。西洋人とちがって、われわれ日本人は哀れにも未だかつて、ただの一人も子供のための藝術家を持ったことがありません。私どもは、自分たちが子供のときに、どんなものを読んで来たかを回想しただけでも、われわれ子供のためには、立派な読物を作ってやりたくなります。」

『赤い鳥』創刊に際して‐鈴木三重吉(大正7年・1918・7月)

 

この「創刊の辞」で鈴木三重吉はかなり過激に「明治期の子供向け童話、雑誌」を否定していますが、今、詳しくそれ以前を比較している時間はないのですが、今後調べてみたいと思います。

 

それにしても、確かに、錚々たる芸術家がこの『赤い鳥』運動に参加しています。上記以外にも、童話作家として、有島武郎、宇野浩二、小山内薫、菊池寛、久保田万太郎、佐藤春夫、谷崎潤一郎、坪田譲治、新美南吉、また童謡音楽家、作詞家として西條八十、成田為三、山田耕筰等々、確かに多くの一流アーティストが参加しています。この『赤い鳥』は創刊から昭和11年・19368月まで、196冊が刊行されたということです。

 

『赤い鳥』第1巻 第1号 表紙 作品名『お馬の飾り』画・清水良雄(広島市立中央図書館ホームページより)

 

最後に個人的な思い出です。大学生の頃に私は石川淳(明治321899‐昭和621987)という文人に遭遇し大変な影響を受けます。ニーチェを読むためにドイツ語を勉強していましたが、途中でフランス語の勉強を始めるのもフランスに留学するのも、この石川淳が原因です。ある時彼の随筆を読んでいると宇野浩二という石川淳が尊敬している先輩が出てきました。私は、咄嗟には宇野浩二の名前はピンとこなかったので、私が尊敬している石川淳が尊敬している宇野浩二とは一体何者なのかと思いましたが、その次の瞬間ふと、その名前で、私が小学校高学年で読んだ、その当時でも最も好きな『海の夢 山の夢』という童話の作者であることを思い出したのでした。上記『赤い鳥』の執筆者の宇野浩二(明治241891‐昭和36年・1961)のことです。『海の夢 山の夢』は今、調べると『赤い鳥』の創刊と同年に発表されていますが、『赤い鳥』に発表されたのかどうか確認できませんでした。

 

『海の夢 山の夢』は、短編童話ですが大変な名作で感動的なので是非一読をお勧めします。

 

 

 

No.20 晴れても「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.22 曇りでも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white