国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉓
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.23 梅雨でも「孫文のいた頃」
『「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする。―(中略)東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている。―(中略)三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。―(中略)誰も口にせぬものはないが、誰も見たものはいない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か。」
吾輩は猫である(明治38・1905年1月~5月)「ホトトギス」
苦沙弥(くしゃみ)先生の講談・落語のような名調子ですが、当時、安易に使われているこの「大和魂」(日本の本質・基準)がなんであるかを真剣に考えたのが漱石でした。
しかし、それにしても漱石の『猫』以来、120年を経た今日でも、メディアや日常会話で、よく見聞きする「日本文化」、「グローバル社会」等の言葉も、実は、何も変わっておらず、全く同じ状況というのは一体…。(新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。)
やれやれ…でも、気を取り直し、次回からこの難問の「武士道・大和魂」の角度から「日本の基準」について考えてみたいのですが、さて、難しいなぁ…どうしたものでしょう…。』
(No.22 曇りでも「孫文のいた頃」)
さて、上記が前回の末尾でした。漱石の『心』における「乃木大将の殉死」と「明治時代の終焉」、それが「武士道、大和魂」に繋がっているのではないかということです。また下記が前回の「追記」の末尾です。
「ただ、肝心の「殉死」そのもの、その「死生観」或いは「武士の切腹」については、今現在では、残念ながら、そして悔しいことに、私の理解を越えており、何ともコメントできません。結局、「武士道」についてよく考えてみなければならない…ということになります。」
「武士道・大和魂」を念頭に置きながら、もう少し、「乃木大将の殉死」について考えてみたいと思います。
(No.22 曇りでも「孫文のいた頃」-追記)
さて、乃木大将の殉死を受けて、漱石より4歳年長、乃木大将より13歳年少の当時52歳の森鷗外(文久2年・1862‐大正11年・1922)もすぐに小説を書きます。
『松岡正剛の千夜千冊』に乃木大将の殉死と鷗外について、こんな記述がありました。このサイトからは以前も、何度か引用しましたが、編集者、評論家・松岡正剛(昭和19年・1944-)のネット連載の「書評・解説集」で、1夜(回)1冊を取り上げ、2000年2月23日の第1夜から、今現在(2023年6月13日)、タイトルの千冊を優に越え、第1827夜まで続いています。ジャンルも多岐に渡り、ネット上なので検索システムも使いやすく、充実しており、有名人のせいかアンチもいるようですが、私には大変勉強になるサイトです。
「乃木殉死の直後、鴎外は、乃木が明治天皇が崩御した7月30日以来、56日間に130回にわたって殯宮に参内していたこと、のみならず、崩御直後に表札をはずしていたことを知らされて、しばし沈痛したという。」
「松岡正剛の千夜千冊・第849夜・2003年3月9日‐『乃木大将と日本人』
(スタンレー・ウォッシュバン著・目黒真澄 訳)講談社学術文庫1980年」
鷗外が乃木大将殉死に反応して真っ先に小説を書いた、という論旨からチョット外れますが、先ず一読、「殯宮」がなじみのない言葉で、理解しにくいですね。調べてみました。
殯宮(あらきのみや・もがりのみや・ひんきゅう):古代,貴人の遺体を葬る前にしばらくの間安置しておく場所。葬祭までは生前と同じく朝夕の食膳を供え,呪術的歌舞を行って霊魂をしずめた。646年の薄葬令や仏教の葬送儀礼・火葬の影響で衰え,元明天皇(斉明天皇7年・661 – 養老5年・721)以後造られなくなった。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
と、あります。No.12重ねて「孫文のいた頃」の「宮中の祭儀における廃仏毀釈」でもふれましたが、長らく江戸期までは、天皇・皇族の葬儀も仏式葬儀で行われていたわけですが、明治の国家神道の方針により、仏式は廃され神道葬儀礼がとられ、この神道葬儀礼によると、「大喪儀」の前に、さまざまな儀礼(殯宮祗候:殯宮移御の儀、殯宮日供の儀(毎日)、殯宮移御後一日祭の儀、殯宮拝礼の儀、殯宮二十日の儀、殯宮三十日の儀、殯宮四十日の儀、斂葬前殯宮拝礼の儀、斂葬当日殯宮祭の儀ーWikipedia)があるようです。
明治天皇の場合、崩御から大喪儀までが56日間であり、乃木大将はその56日間に「殯宮」に130回のお参りをした、ということを言っているわけです。この乃木大将の行為が「武士道・忠」とどこまで関係があるのか現代の感覚では、なかなかわかりにくいですが、鷗外もそれを聞いて沈痛したということですから、当時でも一般からみれば既に特別なことであったのでしょう。
また…
「スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn・1878-1959)は「ロンドン・タイムズ」の記者である。日露戦争のときは「シカゴ・ニュース」の特派員として第三軍に従軍して取材し、のちに第一次世界大戦にロシア軍の従軍記者となり、これらの近代アジアに勃発した戦場を体験するなかで、総じて乃木大将の評価に敵味方をこえた端倪すべからざるものを感じて、この一書をものした。
冒頭に、「日本人の性格には一種微妙な本能がある。すなわち、理想と自我とを融合させようとする傾向が、はっきりした強い底力となっている」と綴り、それがすべて乃木大将に結実しているのを感じたという主旨になっている。実戦のなかに見た乃木希典に、自我を滅却した武士道精神の手本を感じたというのである。
ウォシュバンはともかく手放しで乃木大将を称賛しつづけているため、本書は客観的な史料としては評価されていないのだが、欧米にもたらした影響にはそうとう大きいものがある。“NOGI” を知らない欧米の軍人はいなかった。アジアの軍人にもいなかった。たとえばダグラス・マッカーサーの父アーサーも “NOGI” に感銘し、息子に「つねにサムライたる乃木のような軍人になれ」と諭した。息子のマッカーサーはGHQ司令長官として東京に着任した数日後、赤坂の乃木神社を訪れて花水木を植樹した。いまもその木が残っている。
ウォシュバンの “NOGI” をここに採り上げたのは、こういう従軍体験をした海外ジャーナリストの記録が珍しいこと、従軍記者に武士道を感じさせた乃木とはどういう人物であったかという関心をかきたてられたこと、そして、他に見るべき乃木希典をめぐる一冊を、ぼくが知らないせいである。」
「松岡正剛の千夜千冊・第849夜・2003年3月9日‐『乃木大将と日本人』
(スタンレー・ウォッシュバン著・目黒真澄 訳)講談社学術文庫1980年」
「NOGI: A great man against a background of war」1913 Stanley Washburn
―INTERNET ARCHIVEより
残念ながら私は、この『乃木大将と日本人』をまだ読んでいません。ただ、上記「日本人の性格には一種微妙な本能がある。すなわち、理想と自我とを融合させようとする傾向が、はっきりした強い底力となっている」と、乃木大将に接した当時のイギリス人記者が、日本人の性格に言及していて、「理想と自我とを融合させようとする傾向」の表現に感動したので、その個所をオリジナルの英語でどんな表現をしているのか気になり、ネット検索をしてみました。全文が “INTERNET ARCHIVE” にありました。
「Nogi’s life exemplified that curious, subtle, half-defined instinct, which is so defined and potent an influence in the Japanese character – the tendency to merge the personal in the ideal.」
「乃木の人生は『日本人の典型』であった。その典型とは、日本人の性格の中でも、確固とした強い部分であり、興味深く微妙であり、ほぼ本能であるかのような…それは『理想と自我の融合』という傾向である。」
そして、私がコメントするのも僭越ですが、さすが松岡正剛、サラッと「自我を滅却した武士道精神の手本」と解説、定義しています。即ち、ここでは「自我滅却が武士道精神」です。
なるほど…実は、私は、漱石の『則天去私』も、西郷隆盛の『敬天愛人』も、かなり似た様な意味だと思うのですが、その詳細はもう少し後で…
また、マッカーサーの「植樹エピソード」は知らなかったです。乃木神社に行って見てきたいと思います。
さて、重い話しが続いたので、ちょっと軽いエピソードを思い出しました。私の好きな短編時代小説に下記があります。幕末から明治にかけての剣豪、榊原健吉(さかきばら けんきち、文政13年・1830 – 明治27年・1894)が、明治19年・1886、明治天皇の天覧で、明珍(平安時代より続く甲冑師)鍛えの鉄の兜の試し切りに成功する箇所がクライマックスですが、その冒頭にこんな話が書かれています。
「元治元年・1864・7月、 恩師の幕府講武所頭取・男谷下総守が歿したが、 その墓に詣でた鍵吉が3日の断食の後に、気付け薬の代わりに2升の酒を呑み乾した話は有名であった。
将軍家茂に従い上洛していたので、師の死に水をとれなかった彼は、役目を終え江戸へ 帰ると、車坂の屋敷へ戻る前に、下総守を葬った深川・増林寺へ行き、恩師の墓前に両手をつき、その死を悼んだ。
夜になって雨が降ってきたが、鍵吉は動かない。土砂降りとなって傍で傘をさしかけていた者も堪らなくなり、帰ってゆく。
翌朝、門人、知己が大勢で出かけてゆき、鍵吉を立たせようとするが、濡れ鼠の彼は一言も発せず泥濘に手をついたままであった。
そのうちに、いったん止んでいた雨が、また降り出してくる。門人たちは交替で傘をさしかけた。
鍵吉は食をとらず墓前で3晩を過ごした後、ようやく屋敷へ戻った。妻のお高は鍵吉が 上洛して以来、体の具合がよくないため床についていたが、雨と泥にまみれた夫を見て安心して泣く。
3日の絶食の後、鍵吉は、お高の前で粥20杯と鬼笑い2升を腹に納めたが、そのとき の酒を呑む速さが、水を呑むよりも速かったと言われている。」
「明治兜割り」(津本陽・1984年・講談社)
英雄・豪傑譚好き、酒好きな私としては、憧れもあり、つい長々と引用しましたが、小説ですから、どこまで真実かはともかく、師匠の死に対して3日3晩の雨の中、墓前で喪についていたということがあったのでしょう。「殉死」も勿論ですが、少なくとも、このような形式で「侍が師・主君の喪に服す」という行為が、今となってはかなり想像しにくくなっていますね。因みに榊原健吉は乃木大将より19歳年長、また「天覧兜割り」の時、漱石は19歳ですから、こんな剣豪も同時代人として存在していたわけです。
さて、乃木大将の殉死に戻ります。江藤淳はこのように説明しています。
「この武士道的なヒロイズムでの顕示に反応した作家は、夏目漱石だけではない。実は第一に反応を示したのは、陸軍省の高官として山県(有朋)とも親しかった森鷗外であった。乃木の死は大正元年・1912・9月13日であったが、5日後の9月18日の日記に鷗外は次のように記している。『乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す』ここで『興津弥五右衛門』とあるのは、いうまでもなく乃木と似た理由で殉死をとげた細川藩士に取材した鷗外最初の歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』のことである。この作品が、作家・思想家としての鷗外の生涯に一大転換を劃したものであることは、きわめてよく知られている。これに先立つ数年の間、鷗外の日本の社会に対する態度は、きわめて不安定であり、かつ懐疑的であった。一方で、彼は文学上の自然主義思想に激しく反発し、他方で、無政府主義者、社会主義者、マルクシズムなどという革命思潮に対する関心が青年層にたかまりつつあることを黙視し得なかった。時に彼は自由主義的態度を示し、時にはきわめて権威主義的にも見えた。しかし、このような鷗外の不安定かつ懐疑的な態度は乃木夫妻の殉死を契機としてほぼ一掃され、以後の彼は一貫して伝統倫理の側につくのである。こののち鷗外はゲーテの『ファウスト』の翻訳を除いては、史伝、考証たると、小説、戯曲たるとを問わず、歴史に取材したものしか書かなかった。」
(江藤淳・「明治の一知識人」)
文字通り、『興津弥五右衛門の遺書』というタイトルです。乃木大将の殉死が9月13日で、乃木大将葬儀の9月18日当日には、もう中央公論に原稿を渡しているわけですから、その間に書き上げたことになります(鷗外は乃木より13歳年少)。因みに漱石の『心』は大正3年・4月20日~8月11日の朝日新聞連載で、その連載時のタイトルは、ただ『心』ではなく、『心 先生の遺書』でした。あきらかにこの鷗外の小説も意識して書かれたのではないでしょうか。乃木大将の殉死の1年半後から発表し始めて2年後に終了しています。
さて、上記、江藤淳が、「鷗外の不安定かつ懐疑的な態度は乃木夫妻の殉死を契機としてほぼ一掃され、以後の彼は一貫して伝統倫理の側につくのである。こののち鷗外はゲーテの『ファウスト』の翻訳を除いては、史伝、考証たると、小説、戯曲たるとを問わず、歴史に取材したものしか書かなかった。」と語っています。鷗外も乃木大将殉死を受けて、人生、人間の生きる意味、歴史等について様々に考えなおしたのでしょう。
その鷗外ですが、私は、高校3年の教科書に載っていた『舞姫』(明治23年・1890『国民之友』1月号発表)に登場する美少女・エリスがとてもリアルに表現されていて、当時、ドキドキして読んだものですが、さて、肝心の「史伝」と呼ばれる一連の作品群(『渋江抽齋』、『北条霞亭』等)は、大学1~2年生の頃に挑戦したことがありますが、難しくて歯が立ちませんでした。
我が夷齋・石川淳(明治32年・1899‐昭和62・1987)が『森鷗外』(昭和16年・1941・三笠書房)で「『抽齋』と『霞亭』といづれを取るかといへば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことは言わないつもりである。この2編を措いて鷗外にはもっと傑作があると思ってゐるやうなひとびとを私は信用しない。」とあったので、そんなに有難い作品かと、彼がベストだという『渋江抽齋』(大正5年・1916・1月-5月「東京日日新聞」・「大阪毎日新聞」連載)を覗いてみましたがすぐに投げ出してしまった記憶があります。今見たら、そうでもないのでまた挑戦してみたいとは思っています。
さて、そのレベルの私が鷗外を語るのは難しいのですが、せっかくのご縁なので、読んだことがなかったので、上記『興津弥五右衛門の遺書』調べたら、「青空文庫」にあったので読んでみました。江戸初期の肥後・細川藩の史実を基にした擬古文の読みにくい作品です。でも、まあ短いから(A4で8ページくらい)ともかく読んでみました。興津弥五右衛門が殉死前に書いた「遺書」という形式になっています。
冒頭は下記です。
「某儀明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿(松向寺殿)御墓前において首尾よく切腹いたし候事と相成り候。」
森鷗外「興津弥五右衛門の遺書」(大正元年・1912・9月)
長年の念願がようやくかなって主人(妙解院殿・細川忠利、松向寺殿・細川忠興)の墓前で切腹(殉死)ができる、と始まり、その後、それ以前の事の顛末、経緯が書かれています。が、そもそも「殉死」が主人の許可制であったり、やはり「殉死」がよくわかりません。
◆『興津弥五右衛門の遺書』粗筋
江戸初期、長崎に到着した安南(ベトナム)からの船に茶道に使う何か珍しいものを買い入れてこい、との命令を主君、三斎・細川忠興(永禄6年・1563ー正保2年・1646)より、興津弥五右衛門と横田清兵衛が受けます。この2名の担当者の間で、高価な香木をめぐり、茶道具にそこまでお金をかけるべきではないという横田と、主君の命令と茶道について横田とは見解がちがう興津の間に口論が起こり、結果、興津は横田を切ることになります。
「御当家におかせられては、代々武道の御心掛深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能に渡らせらるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀も総て虚礼なるべし、我等この度仰を受けたるは茶事に御用に立つべき珍らしき品を求むる外他事なし、これが主命なれば、身命に懸けても果さでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候は、その道の御心得なき故、一徹に左様思わるるならんと申候。横田聞きも果てず、いかにも某(それがし)は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、ただ一打に横田を討ち果たし候。」
同上
興津は「細川家は武道も歌道、茶道も堪能な天下の名家であり、茶儀が無用の虚礼なり、というならば国家の大礼、先祖の祭祀もすべて虚礼となってしまう。」と述べ、また主命が「茶道の珍品を求めること」であるなら費用は気にするべきではない、と云います。ここで年少の興津は年長の横田に「茶道がわからんのだろう…」と失礼なことを言い、それに怒った横田が脇差を投げつけ、それをよけた興津が刀で横田を討ち果たします。
さて、刃傷沙汰に及んでまで、興津弥五右衛門は忠興の命令に従って、「香木」を高額で購入してきます。そしてその刃傷の責任を取るために、興津弥五右衛門は忠興に切腹を願いますが、忠興はその不要を説きます。
『三斎公聞召され、某に仰せられ候はその方が申条一々もっとも至極せり、たとい香木は貴からずとも、この方が求め参れと申しつけたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候、伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌に本づき、銘を初音とつけたり、かほどの品を求め帰り候事天晴なり、ただし討たれ候横田清兵衛が子孫遺恨を含みいては相成らずと仰せられ候。』
同上
細川忠興が言うには、興津の行為は正しかった。もし香木が、それほど貴重なものでなかったとしても、命令にそった珍品だったのだから、その購入が大事であると考えたその行動は間違ってはいなかった。あらゆるものを損得、役に立つ役に立たない、の考えで見てしまえば、この世に尊いものなどなくなるに違いない。
さて、「総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし」は感動的な話で、私はそこまでは理解できるのですが、ともかく興津弥五右衛門は、主君・細川忠興にさらに恩を感じます。そして、忠興の三男忠利の死には家来19人が殉死し、忠興自身の死にも殉死者がでるのですが、弥五右衛門に殉死許可は降りません。そして、主君・忠興の三回忌にようやく殉死がかないます。(忠興の命日は正保2年12月2日で、弥五右衛門の命日は正保4年12月2日です。)
それにしても、正確には2年の後の「殉死」の何が名誉なのか、やはりわかりません。鷗外は、翌年の大正2年・1913の1月に『阿部一族』(中央公論)に発表します。恥ずかしながら私はこれも読んでいません。文学史的に、殉死や一族全員の自害、討ち死にの話と理解しているだけです。ただ、鷗外が乃木大将の殉死をきっかけに、2編つづけて武士の殉死や名誉のための死を扱ったわけです。やはり真剣に読んでみたいと思います。
以下は松岡正剛の『阿部一族』についての解説です。
「いくら「お家大事」の江戸初期寛永の世の中とはいえ、異常きわまりない話である。いったいどこに「価値」の基準があるかはまったくわからない。
たしかに「建前」はいくらもあるが、それとともに人間として家臣としての「本音」もあって、それがしかも「建前」の中で徹底されていく。「情」と「義」も、つぶさに点検してみると、どこかで激突し、矛盾しあっている。どこに「あっぱれ」があるかもわからない。鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』や『阿部一族』をまとめて『意地』という作品集に入れるのであるが、その「意地」とは、いつ発揮されるかによってまったく印象の異なるものだった。
しかし鴎外はそのような史実の連鎖にのみまさに目を注いだのである。もし意地や面目というものがあったとしたら、それは乃木大将のごとく最後の最後になって何かを表明すべきものもあったのである。」
「松岡正剛の千夜千冊・第758夜・2003年4月21日‐『阿部一族』(森鴎外)岩波文庫1938年」
さて今回は、私がわかってもおらず、あまり読んでもいない鷗外について、「乃木大将の殉死」という漱石の『心』からの行き掛かり上、どうしても関わらざるを得なかったということが原因の失敗でした。ただ、まあ、松岡正剛でさえも「異常きわまりない話―いったいどこに「価値」の基準があるかはまったくわからない。たしかに「建前」はいくらもあるが、それとともに人間として家臣としての「本音」もあって、それがしかも「建前」の中で徹底されていく。「情」と「義」も、つぶさに点検してみると、どこかで激突し、矛盾しあっている。どこに「あっぱれ」があるかもわからない。」とコメントしているくらいだから、まあ、しょうがないか…。包羞忍恥是男兒、捲土重來未可知。
以上
2023年5月
追記:
さて、『興津弥五右衛門の遺書』の「遺書」部分が終わった後に鷗外はこんな解説をつけます。ここは擬古文ではなく普通の文章表記で、急に読み易くなりホットします。
「正保四年(1647)十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院(幽斎・細川藤孝:忠興の父)の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後に立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切った。乃美は項を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。
仮屋の周囲には京都の老若男女が堵(かきね)の如くに集って見物した。落首の中に『比類なき 名をば雲井に 揚げおきつ やごゑを掛けて 追腹を切る』と云うのがあった。」
興津弥五右衛門は文禄4年・1595の生まれとありますから享年52歳です。末尾に京都の大勢の人々が見物し、このような落首まで出たということは、一般の多くの人々から敬意、賞賛をもって彼の殉死が受入れられていたということですね。
落首の意味は「素晴らしい名誉を天下に上げながら、矢声(矢が的に命中した時に挙げる声)をかけて追腹(殉死)を切る」興津弥五右衛門の名前(おきつやごゑ・もん)を上手に詠み込んでいます。
このカッコイイ賞賛の落首ですが、平安末期、源三位頼政(げんざんみ よりまさ・1104-1180)の鵼(ぬえ)退治のエピソードを想起させます。近衛天皇(1139-1155)の御代、清涼殿に出る妖怪・鵼(頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇)を頼政が射落とし退治した時の話です。
「主上御感のあまりに、師子王といふ御剣をくだされけり。宇治の左大臣殿是をたまわりついでに、頼政にたばんとて、御前きざはしをなからばおりさせ給へるところに、比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公(ほととぎす)二声三声音づれてぞ通りける。其時左大臣殿、
ほととぎす名をも雲井にあぐるかな
とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげ、月をすこしそばめにかけつつ、
弓はり月のいるにまかせて
と仕り、御剣を給わってまかりいず。「弓矢をとってならびなきのみならず、歌道もすぐれたりけり」とぞ、君も臣も御感ありける。」
平家物語・巻第4「鵼」1999年 岩波文庫
概訳はこうです。近衛天皇は「鵼退治」に感動、褒美として「師子王」という名刀を下賜されます。天皇直接ではなく左大臣の藤原頼長から頂戴するわけですが、その時、ホトトギスが鳴きながら空をよぎったということで、頼長は頼政に歌を詠みかけます。
「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」
意味はホトトギスが空高く鳴き声をたてているが、それと同様にそなた頼政も宮中で武名をあげましたね。「雲井」は「宮中」の意も懸け、「名をあぐる」にホトトギスの鳴き声と頼政の武名を重ねています。頼政は片膝をついて、月をちらりと見て返歌しながら、その名刀を頂戴したといいます。
「弓はり月のいるにまかせて」
「弓張月」と「射る」は縁語です。「射るにまかせて」は「ともかく射ったら偶々しとめました」という謙遜です。一同は武道も素晴らしいが歌道も凄いと頼政に感動したということです。
英雄の大変有名なエピソードですが、興津弥五右衛門殉死の時の京都の落首は、あきらかにこの歌のやりとりを意識して、詠まれていますね。
それにしても、天下の「源三位頼政の鵼退治」にも比される「殉死」…って一体何なんでしょう…
源三位頼政の墓・宇治平等院 2018年9月 筆者撮影
調べてみたら、興津弥五右衛門の墓は、彼の主君細川忠興も埋葬されている京都の細川家の菩提寺・大徳寺の高桐院にあるようです。折角のご縁なので今度お参りに行ってこようと思っており、写真が撮れたらこの下に付けます。