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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉕


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.25 盛夏でも「孫文のいた頃」

 

これを、出稿する時、即ち今、少し説明(言い訳)が必要であると思ったので書きます。

No.25の今回は、前回No.24から「陽明学」つながりで始める予定でした。…そもそも、このコラムは下記にあるように、「孫文のいた頃」…初めて「世界(欧米列強)」に対峙した頃からの「日本と中国のこと」を考えたくて始めたわけです。しかしながら「陽明学」を考えることを契機として、もっと時代を遡らないと話が進められない…と云うのが今の結論です。従って、今回、かなりテーマが錯綜してしまい「孫文のいた頃」より2000年程前に話が戻ってしまいます。すみませんが、よろしければお付き合いください。

 

冒頭、ここ一連の流れを少し整理します。

 

日本は幕末から明治にかけて、欧米列強と出会い、吞み込まれないために、明治維新を経て、新国家を建国し、その時に欧米列強の基軸が「キリスト教と資本主義(帝国主義)」であったとして、それでは「日本の基軸」とは何であったのか、あるのか?ということを、当時の政治家、思想家、宗教家、学者・文人等の、いろいろな視点から考えてきました。それは「国家神道」であったり、西洋哲学の手法で「仏教(浄土真宗)」を新しく説明することで普遍化を目指した「仏教」であったり、「武士道」であったりしたようです。

 

そして、その流れの中で、かなり乱暴なまとめではありますが、漱石の『行人』は仏教が、そして『こころ』は「武士道」が根底にあるのではないか…と考察しました。その『こころ』の最終部分に登場する「乃木大将の殉死」と漱石の言う「乃木大将と共に永久に去ってしまった明治時代」について考え、乃木大将の行動規範は「武士道・陽明学」であったのではないか?というところまで来て、「陽明学」について考えてみたい、というところで前回のNo.24は終わりました。

 

さて、何となくわかっているつもりの「陽明学」でしたが、調べ始めるとかなり複雑で、もう少しちゃんと理解するには、結局、本家である「中国での儒学の歴史」と、その日本への影響、日本に入ってからの儒学の歴史・変遷をたどらざるを得ない…というごく当たり前の、しかし大変な難事業が待ち構えていることに、今さらながらに気付きました。

 

確かに「論語」は学生時代からの愛読書の1つではありましたが、ただそれだけの私が、勿論、その「儒学の歴史」を簡潔に説明することは私の能力を越えています。しかし、まあともかく、いろいろと勉強しながら進めるしかないでしょう。

 

「孫文のいた頃」よりも遥か大昔、2000年程前、その頃からの中国大陸文化と日本(倭国)との交流を振り返るのは大変興味深いことではありますが、あまり広げてもしょうがないので我慢して少しだけ…。或いは、「儒学・論語」を語るということはそういうことでしか、語れないような気はします…でもなるべく手短に…。

 

◆中国大陸文化との交流 ー 漢字、律令制度、儒学・論語、仏教

現在、中国大陸文化との交流で遡れるのは、さまざまな異説、議論があるようですが、あの有名な「国宝の金印」でしょうか。日本における最も古い漢字文化の証拠「漢委奴国王印」で、ともかく『後漢書‐東夷傳』に記された、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使に賜った印がこれに相当するとされています。


「漢委奴国王印」福岡市博物館蔵

 

また少なくとも、以下の遺跡出土品は確かなものかと思います。1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」(1983年・国宝指定)です。鉄製の剣に金の象嵌で115文字の漢字があり、『辛亥年七月中』という年号も入っていたので辛亥年は471年が定説で、しかし一部に531年説もあるようですが、つまり5~6世紀、即ちおよそ1500年ほど前です。

「金錯銘鉄剣」(埼玉県行田市稲荷山古墳出土)
埼玉県立さきたま史跡の博物館蔵(左の拡大写真に「辛亥年七月中記」の文字が確認できます。)

 

「文字」を持たなかった我々の祖先であったので、そもそもの漢字文化に話がとばざる得ないのですが、『論語』に戻ります。(ただ、ここまでくると漢字、万葉仮名等いろいろ考えてみたいことだらけですが、ここでは割愛します…。)

 

『論語』は勿論、孔子(BC551-BC479年)の言行録を弟子達がまとめたものですが、その編纂が孔子の死後、BC5世紀くらいから始ったと予想され、現在確認できる最古の論語の版本は、1976年に定州市(北京市の南西120キロメートル位)の前漢中期宣帝(BC74-BC48)の墳墓から発掘された『定州漢墓竹簡「論語」』とのことです。

左:『定州漢墓竹簡・論語』(河北省文物研究所定州漢墓竹簡整理小組・文物出版(北京)1997年)表紙より
右:『定州八角廊漢墓出土的炭化簡牘』(真っ黒に炭化していますが、光の当て具合で文字が読めるのでしょうか…)

 

当然、中国として誇るべき、最古の『定州漢墓竹簡「論語」』だから、その写真もあるだろう、是非見てみたいと、ネットで写真検索をしたのですが見つかりませんでした。

 

でも、中国の友人の協力を得て、彼が送ってくれたこの写真を見て、写真の無い理由がすこし想像できました。1976年の発見当時、まだ中国は「文化大革命」が収束してはおらず、考古学はあまり尊重されていなかったのかもしれませんね。しかも、「炭化」の状態で出土したようです。或いは、出土後に保管の状況によっては急激に劣化することがあるのでしょうか?友人からの後追い連絡で、現在、20216月に初めての修復作業が開始、進行中とのことでした…なるほど、公開が待ち遠しいですね。

 

因みに、この竹簡(or 木簡)ですが、そもそもこの「簡」の文字が「竹のふだ」(上記写真参照)の意味で、紙の発明される前は、竹や木の札に文字を記し、上部に穴をあけ革ひもで編み、これを丸めて保管していました。編集も1巻という数え方も全てこの竹簡が由来です。有名な4文字熟語の「韋編三絶」は本を熱心に何度も読むことの意味ですが、由来は孔子が晩年『易』を好んで、何度も読み、竹簡を編んだ皮(韋)ひもが何度も切れてしまったという故事からです。(紙の発明は中国でBC2世紀位からその原型のようなものは存在したらしいですが、記録に残っているものでは、後漢の和帝に蔡倫〈さいりん・63-121年〉が105年に献上した「蔡倫紙」で、ただ大変高価で流布するのにはそれからまだ時間がかかったようではあります。)

 

さてその『論語』が日本に伝わった記録としては、古事記に、応神天皇(4世紀末?~5世紀?)の御代に百済の儒学者・王仁(わに)が『論語』十巻をと『千字文』一巻を倭国に献上した、との記載が確認できます。

 

それから100年程で「遣隋使」の時代になります。推古天皇の御代、倭国(日本)から隋に派遣した朝貢使節団(600– 618年の18年間に3~5回派遣)ですが、この辺りになると歴史の授業でも習ったし、少し親しみがわき想像がしやすくなりますね。因みに、このころはまだ元号もなく、日本という国名もありません。元号は「大化・645年」から、国名としての「日本」は天武天皇(在位:673686年)」からです。

 

聖徳太子(574622年)や小野妹子(不明)が活躍する時代です。因みに聖徳太子による『十七条憲法』(604年)の冒頭で有名な「以和爲貴(和を以て貴しとなす)」は、日本を表す象徴のように使われたりもしますが、出典は『論語』巻第一・学而第一の12からです。もっとも論語の数ある選択の可能性の中からこれを選んだことに「日本らしさ」の意味があるのかもしれませんが…。そして、この憲法2番目がやはり有名な「篤く三宝(仏・法・僧)を敬へ」です。聖徳太子といえばこの「仏教」が有名ですが、この『十七条憲法』の17条の中、半分は論語・儒学の影響からできています。

 

そして隋(581-618年)から唐(618-907年)に代わることにより遣唐使(630-894年・20回)の時代になり、さらに中国大陸文化を積極的に吸収し、律令制度を確立させ、儒学、仏教の外、法家、道家の思想をとりいれ奈良時代(710794年)から平安時代(7941192年)へと移っていきます。(遣唐使については「コラムNo.1618の追記」参照)

 

有名な菅原道真(845-903年)の遣唐使廃止の建議と同時期の唐の滅亡にもより、これ以降、今まで吸収してきた「中国大陸文化」が日本独自のものに変化していきます。

 

ただどうしても、この奈良・平安時代あたりは、我々の印象?或いは、高校の日本史のイメージでは中国大陸文化の影響というと、律令制度は勿論ではありますが、どうも奈良仏教、平安仏教が前に出ていて儒学というものの印象は薄いように思います。

 

空海(774835年)による『聾瞽指帰(ろうこしいき)・三教指帰(さんごうしいき)797年』は当時25歳の空海の出家宣言でもあり、鼎談・戯曲形式で3教(仏教・儒教・道教)を比較して、仏教の優越性を説いています。

 

「9世紀中葉以降、『唐風』は『国風』へと変わり始め、日本は中国文化の吸収を基盤としながらも、徐々に独自の文化を形成するようになった。平安中期以降、儒家の五経博士(明経博士・みょうぎょうはかせ)の職位は世襲化され、清原氏および中原氏の両氏によって掌握されたが、漢唐の注疏、文字訓詁の学の範疇を出ず、新たな思想や創見は生まれず、支配階級に限定された等の原因によって儒学の影響力は弱まり、その主流的地位は徐々に仏教に取って代わられた。儒学が再び日本社会で勢いを盛り返すには、新たな理論と新たな時代の条件を待つ必要があった。」

朱新林『中国古典学の視野から見た日本の近代儒学』
2020年Science Portal Cina-国立研究開発法人 科学技術振興機構

 

上記、「明経博士」とは儒学を教授する役職で、それが世襲化・家元化され、清原家、中原家はあまり表舞台には登場しませんが、明治になるまで続いていたようです。

 

ただ、上記「清原家」に清原頼業(きよはらよりなり・1122-1189年)という儒学者は朝廷で政治諮問などを受けて、藤原頼長(1120-1156)、平清盛(1118-1181)、九条兼実(くじょうかねざね・1149-1207)等にアドバイスをしていたということです。

 

ところで、儒学の経書の中、重要とされる「四書五経」は高校の歴史でも学習したと思います。四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』です。この四書の中、『大学』『中庸』はそれぞれ本来『礼記』中の一篇であったものを、朱熹(1130-1200)が取り出し、独立させこの「四書五経」として整備しました。

 

「我が朝でも高倉天皇(1161-1181)の御代に、侍読(じとく)清原頼業『礼記』を読みて『大学』『中庸』の2篇に至るごとに、すなわち歎じて曰う。後世達悟の人ありて、別にこれを表章して2経となさば天下の至宝であろうと。清原はおおよそ朱子とその時を同じゅうしている。当時朱子の『四書集註』はまだ我が国に渡来していなかったのである。」

宇野哲人「『大学』講義」・1916年、講談社学術文庫・1983年

 

清原頼業は朱子より10歳年長ですが、その朱子の『礼記』から、『大学』、『中庸』の独立(「四書」成立)と、同じことを、彼が考えていたということです。頼業は死後、京都嵯峨野の「車折神社・くるまざきじんじゃ」に祀られますが、そのもう一つの御神体は「論語」であったといいます。

 

さて、儒学のその後に戻ります。

 

朱新林の言う通り、鎌倉期に朱子学(宋学)が入ってきてから変わるのですが、司馬遼太郎は隋唐から導入時の「律令制度」「儒学」そして「その特殊な受入れ方」、「その後」について下記のように説明しています。

 

「さて、6,7世紀の統一国家のつくり方についてである。当時の大和の政治家や吏僚が、国家をつくるについてのしん(’’)として考えたのは、「律・令・格・式」というものだった。これさえ導入すれば、浅茅ヶ原に組立式の野小屋でも建てるようにばたばたと国家ができると思ったのである。目のつけどころに感心せざるをえない。

 蛇足ながら「律」とは刑法で、「令」は行政法的なものをさす。「格」は「律」「令」の補足とか例外的な法規であり、「式」は律令を施行するにあたっての細則のことである。「律令格式」と一言で呼ばれるものは、近代法でないながら、4者は相関し法体系といってもいい。

 律令格式は、古い歴史がありながらも、隋唐の時、新品のような光沢をおびて完成した。

 6,7世紀の日本は、その大部分を導入した。実情にあわぬところは、多少修正された。

 隋唐の律令制による土地制度は、王土王民制だった。土地も人民も皇帝1人の所有である、という思想である。

 この思想は儒教からでたものらしい。『詩経』にいう。『普天ノ下、王土ニ非ザルハ莫(な)ク、率土(そつど)ノ浜(ひん)、王臣ニ非ザルハ莫シ』という言葉は、当時の中国では慣用句のようなものになっていた。(降って14世紀に成立した日本の『太平記』にもこの慣用句が引用されている。)‐(中略)‐ このようにして、隋唐の管制を導入しながらも、もっともユーラシア大陸的な宦官(かんがん)は入れず、また隋唐の帝政の基本ともいうべき科挙の制も入れなかった。この2つをもし入れていれば、当時の日本は、中国そのものになっていたろう。(とくに科挙の試験制度を採用すれば、日本語までが中国語に近いものになってしまったにちがいない。)

 さらに大きなことは、面としての儒教を入れなかったことである。

 こういえば誤解をまねくかもしれない。

 念のために面としての儒教などという自分勝手な概念に定義をくっつけると、学問としての儒教ではなく民衆のなかに溶け込んだ「孝」を中心とする血族(疑似血族もふくむ)的な宗教意識をいう。ここから、祭祀や葬礼の仕方や、同姓不婚といった儀礼や禁忌なども生まれる。それら儒教の一切をシステムぐるみ入れたとすれば、日本は中国社会そのものになったにちがいない。

 結局、日本における儒教は多分に学問―つまり書物―であって、民衆を飼い馴らす能力を持つ普遍思想(儒教だけでなくキリスト教、回教など)として展開することなくおわった。」

『この国のかたち』第1巻-1章「この国のかたち」1986年3月(文春文庫・1993年)

 

この文章の後に司馬遼太郎は「仏教」について言及し、それもやはり隋唐文化の影響を受けた「鎮護国家仏教」であり、勿論、我々が知る通り、鎌倉仏教のように民衆に広がっていった面もあるわけですが、(仏教も)民衆個々を骨の髄まで思想化してしまうという意味での作用はもたなかった」(同上)と結論付けています。

 

ただ、当然気になるその理由はこの第1章では書かれていません。「律令制度」は入れたけど「宦官制度」、「科挙制度」は入れなかった。何故、儒教の宗教的意識も含む「それら儒教の一切をシステムぐるみ」入れなかったのか?ということは、即ちそこに「日本らしさ」がある、と考え、彼は『この国のかたち』を書き始めたのでしょう。この第1巻の第1章「この国のかたち」の末尾は下記のように締めくくられています。

 

「また平安末期、貿易政権ともいうべき平家の場合も、さかんに宋学(儒教)に関する本などを輸入した。さらには室町期における官貿易や私貿易(倭寇貿易)の場合も同様だった。

 要するに、歴世、輸入の第一品目は書物でありつづけた。思想とは本来、血肉になって社会化されるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。そのくせに思想書を読むのが大好きなのである。こういう奇妙な ー得手勝手なー 民族が、もしこの島々以外にも地球上に存在するようなら、ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。」

同上

 

最終的には上記の辺りに「日本の問題」があるのかもしれませんが、それを意識しながら儒教の歴史を追ってみましょう。

 

◆鎌倉期以降の儒教(宋学・朱子学)

さて、民衆には宗教的には根付かなかった、生活に密着しなかった「儒教」ですが、為政者達には様々な影響を与えていきます。

 

「鎌倉幕府の頃、中国の影響が日増しに強まる中で朱子学(中国では程朱理学・ていしゅりがく)が日本に伝わり、それまで主流だった漢代から唐代の経学に徐々に取って代わるようになった。鎌倉時代に入宋した僧たちは仏教を学び、仏教の経典を集めたほか、儒学の経書も必携の文物であった。

 たとえば、鎌倉時代の僧であった俊芿(しゅんじょう・1166-1227)は儒学の経典200冊を持ち帰り、円爾(えんに・1202-1280)も何千巻もの典籍を日本に伝えた。円爾は宋学を初めて日本に伝えた人物であり、19歳にして孔老の教えを学び、北条時頼の要請に応じ相州において『大明録』を講義した。」

朱新林『中国古典学の視野から見た日本の近代儒学』(既出)

 

現代の我々の感覚でいけば、なんで仏教の僧侶が儒学を?という疑問がわいてきますが、宋代の傾向として、儒教、仏教、道教の3教が混然一体となっており上記、北条時頼に円爾が講義した『大明録』は『仏法大明録』ともいい基本禅宗の書物ですが、程頤(ていい・1033-1107年)、朱熹(しゅき・1130-1200年)の説が広く引用されているということです。

 

さて、ようやく、朱子学の程頤、朱熹が登場しました。上記、朱新林は、朱子学=程朱理学(中国での呼称)と説明していますね。そして北条時頼(1227-1263年)といえば『鉢の木物語』で有名な執権、元寇を撃退した北条時宗(1251-1284年)の父にあたります。この頃は大陸では元の侵略の影響もあり、多くの南宋人が日本に逃れてきました。俊芿、円爾は日本からの留学僧ですが、南宋からは臨済宗の禅僧、蘭溪道隆(らんけいどうりゅう・1213-1278年)、無学祖元(むがくそげん・12261286年)等が来日し、北条時頼や時宗の庇護を受け、鎌倉に名刹、建長寺、円覚寺を開山します。かなりの数の僧侶が渡日してきたようで、建長寺では開山当時、中国語が話されていたといいます。

 

ようやく朱熹が登場したところで今回は擱筆です。「陽明学」を考えるはずが、その前段階の朱子学にようやくたどり着きました。今から800年程前の頃のことです。このコラムのタイトル「孫文のいた頃」ですが、中国との交流はすくなくとも2,000年の積み重ねの上にある、ということを今回、改めて痛感しました。そして宋学(朱子学・陽明学)の成立には、宋・中国大陸の歴史的、政治的状況が大きく関わっているようです。

 

次回は仏教と儒教がかなり密接に結びついていた鎌倉時代あたりから、「陽明学」に向っていきたいとも思っていますが、でも、先ほど割愛した、日本語の文字が生れる「万葉仮名」も気になっていますが。

 

以上

2023年7

追記:

HSKを受験する年間4万人近い方々の中で『論語』の冒頭、「子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(子の曰〈いわ〉く、学びて時にこれを習う、亦〈ま〉た說〈よろこ〉ばしからずや。朋〈とも〉遠方より来たるあり、亦〈ま〉た楽しからずや。)は中学校、高校の教科書にも載っているし、ほとんどの方が一度は目にしたことがある言葉だと思います。しかしながら『論語』を通読された方はどれほどいらっしゃるのでしょう?おそらく1~2パーセントではないかと思います。

 

今回の上記コラムでも見て来たように、「儒教・儒学」、『論語』は日本の文化とも大変密接な関係があり、2500年前の言行録ですが、内容的には全く古さを感じさせない、まあ、もっとも、そうであるから「古典」というわけですが…とても素晴らしいものだと思います。ただ、表現形式が古典なので、取っ付きにくい印象があるのは事実です。でも、食わず嫌いは大変残念なことです。

 

確かに、突然『論語』挑戦に抵抗がある方も少なからずいらっしゃるでしょう。その方々のために、感動的な短編小説をご紹介します。

 

中島敦(明治42年・1909‐昭和17年・1942)の『弟子』という作品です。中島敦は或いは、『山月記』という短編が、私の頃(50年前)も今も、高校2年生の教科書にあるので名前はご存じの方も多いかもしれませんね。ただこの『山月記』は、世間に認められない詩人が発狂して虎になってしまうというストーリーで、「臆病な自尊心」というテーマの大変深い作品ですが、高校2年生に適切なのかな?とも思ってしまいます。

 

ただ、難しい熟語が数多く使われており、でも、瞬時に理解できないながら、その文体が文語調で非常に格調高く、カッコよく、おそらくそれを感じ取らせることと、短いので全編載せられる、という理由で、教科書に採用されているのでは、と思います。

 

「隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」

『山月記』の冒頭(初出・昭和17年2月・文学界)講談社文庫

 

さて、『弟子』は子路(しろ)というもともとヤンキーであった青年と孔子との「交流ストーリー」です。

 

「魯の卞(べん)の游侠の徒、仲由(ちゅうゆう)、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人(すうひと)孔丘(こうきゅう)を辱めてくれようものと思い立った。似而非賢者何程のことやあらんと、蓬頭突鬢・垂冠・短後の衣という服装で、左手に雄鶏、右手に牡豚引提げ、勢い猛に、孔丘が家を指して出掛ける。雄鶏を揺すり豚を奮い、嗷しい脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾だそうというのである。

 けたたましい動物の叫びと共に眼を瞋して跳び込んで来た青年と、圜冠句履緩ゆるく玦を帯びて几に凭った温顔の孔子との間に、問答が始まる。

「汝、何をか好む?」と孔子が聞く。

「我、長剣を好む。」青年は昂然として言い放つ。

 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気満々たる誇負を見たからである。血色のいい・眉の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。」

『弟子』(初出・昭和17年7月・文学界)講談社文庫

 

子路という地元のヤンキーが、賢者として評判の孔子に鶏と豚を引っ提げてイチャモンをつけに来るところから始まります。そして、孔子の人間的魅力に惹かれて弟子となり、ヤンキーであったはずの子路も、孔子同様に「美しい理想主義者」となって、その「古代の理想主義者の悲哀」を師弟交流を通して表している非常にわかりやすい短編で、『論語』も随所に登場します。この小説から入れば、おそらく『論語』がもっと生き生きと感じられて、読みやすくなると思います。「青空文庫」にもあるし、是非お薦めします。(あ、でも読むには「語注」は必須です。どこからでも出ているので、文庫版がよいかもしれません…)。

 

「上智と下愚は移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀なので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。」

同上

 

孔子の墓:中国 山東省曲阜市の「孔林(こうりん)」と呼ばれる孔家(子孫達)の広大な森林墓地の中にあります。
墓地の総面積は約200万㎡(東京ドームの42倍)、2500年の間に10万人以上が子孫として埋葬されているそうです。
2018年8月 筆者撮影

 

 

No.24 梅雨明け間近「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.26 秋分間近でも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white