国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座③
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.3 「孫文のいた頃」
さて、前回、「先ず日本について」と題して司馬遼太郎の「この国のかたち」(文春文庫 全6巻)をご紹介しましたが、その全121章、内、中国が少しでも出てくる章が80章に及びます。勿論これは、司馬遼太郎が特に中国を意識したわけではなく、日本について考えれば必然的に最も関係の深い国として出てくるのが中国です。その中からいくつかをご紹介したいと予告しましたが、先ず「孫文」からお話したいと思います。ご存じの通り、現在の中国建国の最重要人物で、しかも、日本とは様々な縁があった人物です。
孫文は日本を14回訪れ、通算10年近く日本に滞在しました。初来日は1897年8月16日(孫文31歳):横浜港でした。まさしく「日本には全国いたるところに孫文の逸話が残っている。」(「帝都東京を中国革命で歩く」《白水社》譚璐美著)とあるように逸話も多いのですが、何よりも、孫文は当時出会った多くの日本人に大変愛され人気がありました。民間人の宮崎滔天、梅屋庄吉から政治家の犬養毅、そして民間人の巨魁の頭山満・・・彼等は、莫大な資金も含めて、孫文の革命計画への援助を惜しみませんでした。
神戸市垂水区の「舞浜公園」、明石海峡大橋のたもとに「孫文記念館」があります。私は残念ながらまだ訪れたことがありません。この「孫文記念館」では、10年前、辛亥革命100周年の記念行事の一環で、残されていた膨大な資料を整理し、当時、孫文に関係した日本人名簿を作成、その数なんと1000名以上、また在日華僑800名に及ぶということです。(「孫文記念館」のHPで確認できます。)
さて、その孫文ですが、犬養毅の援助の関係もありこのJYDA・HSKオフィスから近い早稲田の犬養邸のとなりに住んでいたこともありました。また孫文と一緒に「中国同盟会」を設立した辛亥革命のもう一人の立役者、黄興も日本語学校・弘文学院、早稲田大学に通い、やはりこのオフィスのすぐ近くに住んでいました。1200名の清朝留学生があつまったという「孫文歓迎会:1905年8月13日」は飯田橋の「富士見楼」で行われ、また、「中国同盟会:1905年8月20日」は孫文の支援者の私邸でしたが、場所は今の港区虎ノ門のホテルオークラ東京で、数年前に改装されたホテルオークラには、私はまだ確認していませんがその石碑が新たに建てられたとのことです。
120年程前のJYDA・HSKオフィス周辺
2021年の今、当時の日本の世相・状況を上手に想像するのが少し難しいかもしれません。簡単に言えば時代背景ですが、今から120年程前、明治維新より僅かに30年、西南の役から20年、日清戦争から数年後、日露戦争の数年前、日本はまだ不平等条約があり完全な独立国とは言い難いく、欧米列強に対峙しつつ、建国途上であり、その当時の日本国や日本人を上手に想像し、理解することが大切であると思います。その時代背景を考えると、孫文に共感できる数多くの日本人がいたということは、或る意味、非常に美しいことでもあり、また、わかるような気もします。これは私の勝手な想像ですが、当時まだまだ建国途上国、半独立国家であった日本には「明治維新の光と影」と欧米列強に対峙して「独立国家」を目指していた、志ある数多くの日本人がいて、その彼らが「これから新しい国を建国しようという孫文」に「連帯感」を感じたようにも思います。勿論、ここで明治維新にさかのぼって話を始める時間も無いので省略しますが、皆さん是非、世界に対しておかれた当時の日本の状況を上手に想像してみてください。
今でこそ歴史上の「孫文」ですが、当時、半独立国家であった日本よりもさらに渾沌・混乱し、遅れていると見られていた清朝から逃れてきた少し名の知れた、しかし30歳そこそこの一青年です。勿論私は「孫文」の研究家でも何もありませんが、学生時代から彼についての様々な本を読み、それほどまでに人気のあった孫文の魅力について、色々と想像してきました。一つ言えるのは、どの本にもあった彼の人柄です。清朝下の中国を改革したいという理想と情熱に燃えた、志高い純粋な青年であったようです。以下、司馬遼太郎の「この国のかたち」では、その「孫文」を適確・端的に表現しています。
孫文は留学生ではなかった。日本にきたときにはすでに一人前の年齢だったし、医者でもあり、その前に英国公使館で監禁されるなど、革命家として多少の履歴をもっていた。
かれが知名度を高めるのは、明治三十五年以後、日本を根拠地のひとつとして活動するようになってからである。宮崎滔天などの同志や同情者を多く得た。やがて中国を滅亡から救いだすキイの一つとして、かれは日本に大きく期待するようになった。
その清朝が、一九一一年、ほとんど風倒木のようにたおれて以後、中国現代史の苦悩と混乱がはじまった。各地に軍閥が割拠し、たがいに古代の王侯のように私(し)を張りあった。そのなかで孫文はひたすら「天下ヲ公ト爲ス」ことを言ってまわった。
孫文は、大きな金属製の吹奏楽器だった。
澄んで、論理的な思想をたかだかと吹奏した。かつて東京の留学生たちから“孫大砲”とあだなされたこともあった。当時の中国の旧式砲は命中と破壊よりも、その大きな音で敵をおどかすといういわば楽器のような道具だった。孫文はナマ身の革命家としては、革命に必要な陰謀の感覚をもたず、かんじんな戦術には頓着せず、さらには反革命にどすを利かせるための武力養成には鈍感だった(晩年には気づいていたが)。ただ一個のあかるい人格と、調子の高い愛国心だけを武器にしていた。
孫文は、小柄だが端正な風貌と、透明度の高い人格をもっていた。私欲がなく、権力への執着さえ乏しかった。かといって隠者や狂者といった風をもたず、十分は平衡感覚をもち、このため百戦百敗の生涯で、各地を転々としながら、つねに陽気だった。いま孫文の生涯をふりかえっても、にごりというものが見られない。
― 「この国のかたち」第2巻-13「孫文と日本」(文春文庫)
私はこの「くだり」が大好きです。司馬遼太郎の文章中でも名文であると思います。軍閥が、野武士や野盗のように私欲のための威を張る中、「天下為公・世の中はみんなのものだ」と高い理想を掲げて、その高潔な人格をもって、皆に説いてまわった熱血好青年・孫文が目にうかぶようです。この「天下為公」は「礼記」からの言葉だそうですが、この美しいスローガンは彼の墨蹟で例えば、サンフランシスコのチャイナタウンのゲートにもあります。サンフランシスコは、実は私が昔勤務していた国際交流団体の本部があり、さんざん訪れました。チャイナタウンは大好きで出張の度によく散策しましたが、数年前に別件での出張の折り、この扁額を再確認して非常に感動したのを今でもよく覚えています。
サンフランシスコ:チャイナタウンのゲートの孫文筆「天下爲公」(2018年4月)
今回、少し長くなってしまいましたが、次回、もう少しこの話の続きをしたいと思います。
以上
2021年9月