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ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.31 梅は咲いても「孫文のいた頃」
前回は『万葉集』と「万葉仮名」について考え、今回は「平仮名」に移る予定でした。しかし、『万葉集』・「万葉仮名」が成立していく過程、つまり、「無文字社会が外国文字(漢字)を倭文の文字として使用していく過程」において、「文字の役割・機能」についての興味深い考察を見つけました。
「平仮名」が発明される以前に、初めて、「外国文字(漢字)を倭文の文字として使用する」という方法である「万葉仮名」についてもう少し考えてみたいと思います。
◆言葉を定着させるには文字が必要
「それでは、万葉仮名という不十分な文字によって生まれたところの万葉の歌とは一体何か。万葉の歌は、漢詩と和歌の間の多種多様、雑多な歌からなる。模式的に言えば、最初は、漢詩を身近な形の歌に翻訳し、歌作りの訓練を始める。次は和語以前の、まだ文字に書き上げられておらず、定着していない言葉(倭語)を書くことによって定着させ、登録してここに和語・和歌を作っていく。書かれてある漢詩・漢語の翻訳による理解によって、言葉、詩、語彙の構造を知り、その構造に従って、形と姿の定まらなかった現地語を固め、一定の形へと構築する。この双方向の営為を通じて、日本語というものを創造していく過程の文字、それが万葉仮名である。」
石川九楊(1945‐)『万葉仮名で読む「万葉集」』2011年・岩波書店
No.27 菊 咲くころも「孫文のいた頃」の「訓読みの発明」のところでも似たようなことを扱いました。もともと「倭語」という確固としたものはなく「漢語」の「音読」から脱して翻訳語として「訓音・訓語」が「倭語」とし成立していった、という点です。
ここでも、もともと「倭語」というしっかりした現地語があったわけではなく、漢字(万葉仮名)を使用して表記することによって「日本語」が出来ていくその過程として「万葉仮名」がありました。
石川九楊は「文字表記」について次のような見解を示します。
「一般に考えられているように、まず口誦の歌が豊穣にあったとは考えられない。否、あっただろう。だが、それは万葉歌と連続するものではなかった。口承文学という言い方がよくなされるが、これは、近代的な1つの誤解、さらに言えば、西欧言語学的な誤解ではないだろうか。書くということは、話し言葉=言を写すことではなくて、書く現場をくぐることによって作られた言葉である文語を指す。口語がそのまま書写されるということは基本的にはない。書き取られると文語体へと変貌を遂げる。小説の中の直接話法とて、実際の会話とは大きく隔たっている。〈中略〉したがって万葉歌は、古い歌(古謡や民謡)があって、それをそのまま書き留めたのではなく、書くことによって作られたのである。」
同上
言われてみれば全くその通りであるかと思います。「叙事表記」よりは漢詩の文体、音律スタイルを基にできた「抒情・歌謡表記」のほうが「文字表記」しやすくはあったでしょうが、それにしても、それなりに苦労して「歌謡表記のスタイル」を発明していったということです。つまり「漢字」に対して「漢字ではあるけれど漢字ではない万葉仮名」を使用して「歌謡表記方法」を発明していったのでした。No.29 「討ち入り」過ぎても「孫文のいた頃」の追記「話し言葉」と「書き言葉‐文語文・口語文」でもふれた件です。
石川九楊は「漢詩体・漢文訓読体から寸前和歌へ」と表現します。「寸前和歌」とは彼の造語ですが、「『万葉集』の最後の段階の1字1音式の歌の事である。」と定義しています。即ち、前回No.30 立春まぢかき「孫文のいた頃」で引用した下記のような歌(第17巻・3983番‐天平19年・747詠)のことです。
大伴家持に「万葉仮名」が無ければこの歌は成立していません。家持は当然「山」という「漢字」も「訓」も知っていて、意味の上から、この漢字を使用してもよかったのでしょうが、彼は倭語で「やまもちかきを」と発想して「夜麻毛知可吉乎」と文字化したわけです。石川九楊のこの「文字社会↔無文字社会」にたいする考察は非常に興味深いものがあります。
◆文化人類学・民俗学的、哲学的見地からの「話している言葉・声」と「文字」の関係・意味
「文字ができて以降の我々は、言葉というものを、単語であるとか語彙であるとか、これは名詞、これは動詞などと、品詞に分けて考えているけれども、実際には、それらは相互に溶け込んだ声からなりたっている。声というのは、発声する力。力の強弱の具合によって、当然母音があり子音があり、とされる構造も変わっていく。声とはそういう発語する力のことであり、その力の具合から成り立っている。だからその力が、体の動きになってみたり、あるいは一定の韻律できちんとした声になっていく。無文字の言葉は実際に文字ができてからの言葉とは、全く違う得体の知れないものだ、と考えるのが正しい。」
「無文字時代の表現は、声が最先兵として非常に突出したものだが、それがすべてではなく、身振りなども合わせて成立していた。今でも『いいですよ』と言う代わりに、頭を下げて頷けば、両者は同じ意味を示す。無文字の言葉や歌謡というものがあるにせよ、パッと聞いてパッと写しとれるようなものではない。それはある場面である種の動作を伴っていて、それと共にしか表出されない。動いている体がなにがしかのことを言っていたり、声のイントネーションがこの体の動きの中に溶けてしまっていたりもする。このようにいろいろな身振りや手振りと溶け合い、その総体として無文字の言葉はある。」
同上
つまり、石川九楊の『万葉集』の成立について、極めて「文化人類学・民俗学・哲学」的な見地からの、言葉と文字の関係を意識しながらの、その結論的考察は下記になります。
「したがって、前もって口誦の歌が存在していて、それを漢字を使って写し取ったものが初期の万葉の歌だということにはならない。はっきりと漢字で固定できない表記は、まあこんな表現でしかないという形に取捨選択を加えて文字化をしていく。つまり、口承文学といったところで、もともとの歌というよりも、あくまで書くことを通じて作られた歌であるというふうに言っていいし、言葉というのはそういうものだと考えればいい。」
同上
無文字社会の民族が自分達の文字を持っていく過程を考えるには大変重要な視点であると思います。この石川九楊の一連の考察の「ダメ押し」下記一節を引用しておきます。
「文化人類学者・川田順造(1934-)の『無文字社会の歴史』(1976)という本に、印象的な報告がある。西アフリカ、モシ族の村での話。語り部が王様の歴代の物語を語り始める時間に村の広場にでかけていくと、誰も来ない。やがて1人がやってきて、太鼓をトントントンとたたいて帰ってしまう。最初のうちは、太鼓の音をテープレコーダーに記録していたが、このまま回していたらテープがなくなって、本番の語り部の話が録音できなくなるからと思ってやめた。やがて次第に夜が明け、そこに人がやってきて、広場を掃き始めた。そこで「まだ語り部はやってこないのか」と訊ねると「え?さっき来たでしょ」と答えた。そこで太鼓をたたいたのが語り部だったと気づいた。文字化後の我々には気付かないことだけれど、実は太鼓の音が王の物語を語っていたというのである。」
同上
余りに「文字が氾濫する日常生活」で、私が「言語・言葉」だと思っているものは「文字・文章」のことであったのかもしれません。そして最近ではその「文字・文章」に加えて「映像・動画」という表現手段も進化しているように思います。ただ「映像・動画」という表現手段も大変興味深いのですが、その哲学的考察は、この場での論旨から外れるのでまたどこか後に譲ります…。
「言語・言葉」と「文字(の発生・発明)=文章(の発生・発明)」の関係について、いささか深く踏み込んでいますが、我が国、初の「文字の発生・発明」を考えているわけですから、その「過程」への考察は大変重要な事である思います。
◆「言葉・語」と「字」と「文字」の関係
そして「言葉」と「字」と「文字」の関係について、石川九楊と同じ捉え方をしている一文があります。
「ただし、字の成立は文字の成立と同じではない。文字とは語を書きあらわし文を書きあらわすものである。字を語や文に対応させて並べる方法ができたときが文字の成立である。」
犬養 隆(1948‐)『漢字を飼い慣らす―日本語の文字の成立史』2008年・人文書館
字だけではどうしようもなく、「語(日常しゃべっている言葉)を書きあらわし、考えを書きあらわしたもの」、その「書きあらわす」という方法・作業の過程で字が文字になるのでしょう。
「言語・言葉」≠「字」になります。「(口からでた言葉としての)ハナ」≠「(文字としての)はな・花」ということになります。「はな・花」は文章の中に使われて初めて「文字」になります。「活字中毒」・「活字離れ」という言葉が出てきてから随分経ちますが、更に難しいことに上記「活字」は文字を表す「影」であり、本来の正体は「手書きの文字」であるはずなのですが、これも、どこかで考えることにして、先を急ぎます。
◆『万葉集』(万葉仮名)が土台となった「仮名≒倭・和・日本語」の発明
上記、大伴家持の歌(第17巻・3983番ー天平19年・747に詠む)、万葉仮名でポツポツと31文字・音で詠われた、その歌を、石川九楊は「寸前和歌」と命名しましたが、確かに、完全な漢字(外国語文字)を使用しながら、「音」としては完全に「倭・日本語」です。
「その仮名の誕生 ―つまりは正式な仮名としては、平仮名・女手の誕生― への移行期間が650年から900年頃ということになる。
『万葉集』を見ていくと、漢字・漢語の枠組を超えてでも表記したいという思いが熟してきている様がよく分かる。漢字・漢語を超えるきっかけとなった第1は、人の名や土地の名、固有名詞である。これは漢語の範疇外のものだから、それを何とか表記しようとして、借字(しゃくじ)いわゆる仮字(かな)表記が始まる。この場合の仮名は、独立した平仮名や片仮名と区別して漢字を借りるという意味で〈仮字・かな〉と書く」
石川九楊(1945‐)『万葉仮名で読む「万葉集」』2011年・岩波書店
外国文字である「漢字」を借りて「借字(しゃくじ)」として「平仮名(ひらがな)」発生以前の万葉仮名的用法を「仮字(かな)」(=「漢字の仮借(かしゃ)という用法」)と言います。そしてこの場合「漢字」はそれに対比して「真名(まな)」と言いました。
◆倭語が滅びず日本語が生れた理由は「漢字」の特性(表語・意文字)
結論から言えば「漢字」から「仮名」を発明することにより「日本語表記」が創造されていくわけですが、その前にもう少し、逆に何故中国語に倭語が呑み込まれなかったのか?その辺りの理由を考えてみましょう。圧倒的な有文字・漢語文化の前に、倭国は、隋・唐(中国)の一地域になっていた可能性もあったはずですが、そうはなりませんでした。その1つの理由に「漢字」が「表語文字・表意文字」であること、「1字が1意味を持つ(派生的に幾つか意味をもつようになるとしても)」そして「視覚による(意味の)理解がしやすい」という特徴が起因していたようです。
「どの程度の権力がどのように分散し、どのような政治がとり行われたか知れない孤島(倭国・無文字社会)に、すでに孔子の『論語』のみならず、諸子百家の政治・思想・宗教を有する言語が流入すれば、少なくともこの分野は中国化した。倭奴国王や卑弥呼の庭では、有文字・中国語に満ち溢れていたことは間違いない。(中国)大陸内部の諸国では基本的に、地方の土着語は払拭の度を強め、ほぼ中国語(漢字語)と称(よ)べるような体裁を整えた。南米は現在もなお、諸々の土着系の言語が残りつづけてはいるものの、結果としてポルトガル語化、スペイン語化した。その事態(有文字社会文化の無文字社会文化への流入)は東アジアでも同様であった。にもかかわらず、韓国・朝鮮語や越南(ベトナム)語、日本語は残りつづけ、中国語化することはなかった。アルファベットの言語は声の言語であり、声として定着する。それゆえ、ポルトガル語やスペイン語化(むろん、その訛りとしてのピジン語やクレオール語があるにせよ)する以外になかった。ところが中国語=漢語=漢字語は、一字が一語という絶妙の形態を宿していた。そのため、中国語化しても、原地の音、つまり現地語が排除されることはなく、残り続けることになった。」
同上
この状況を図式化すると下記になります。用語についても少し整理しておきます。
▶ 表音文字:言語の音を表す文字 例:アルファベット、平仮名
▶ 表語文字:言語の音と意味を表す文字 例:漢字(音訓読み、漢語読み、地域読み・方言、等を考えると「表意文字」的)
▶ 表意文字:言語の意味・概念を表す文字 例:数字(「1」は数という意味(概念)を表すが、読み方は定まっていない。)、絵文字(読み方もバラバラ)
*表語文字と表意文字の区別は曖昧で一緒に扱われることもある。
上記、漢字とアルファベットの対比図で、漢字に(「形」による)、アルファベットに(音による)という補足説明を加えました。勿論、文字に「形と音」は不可欠で、アルファベットも文字である以上、当然「形」を持っていますが、漢字の視覚にうったえる機能について、白川静はフランスの哲学者アラン(本名、エミール=オーギュスト・シャルティエ:1868-1951)の言葉を引用して下記のようなコメントをしています。
「アランが漢字を〈形による言語〉(『アラン藝術論集』桑原武夫訳476頁)というとき、それは漢字をデッサンと同列のものとみなしているのであるけれども、これを善意に解するとすれば、〈線は人間的表徴であり、恐らく判断の最も力強い表現である〉(同、442頁)という線の意味の認識とみることもできる。漢字の生命は、たしかに線が意味を持つという事であり、その線による構成が、人間的表象の一部であるということである。そのような再解釈の上に、漢字映像説をおくことができよう。」
白川静『漢字百話・71孤立語と文字』中公新書・1978年
そして、石川九楊は続けます。
「もしも中国語がポルトガル語やスペイン語のようなアルファベットのごとき音写文字言語であったとすれば、朝鮮・韓国語も越南語も日本語も成立することはなかった。一字一語の漢字は、意味の共通性と音の多様性を保証した。北京語、上海語、広東語などが大陸にあり続けるのもそれゆえであり、それほど異質で多様な言語の(中国)大陸が、ヨーロッパのように小さな国々に分かれ、激しく争いあうこともなく、統一的にあり続けているのである。」
石川九楊(1945‐)『万葉仮名で読む「万葉集」』2011年・岩波書店
なるほど、あれだけ広大で地域文化も異なるはずの、現在の「中華人民共和国」が1つの国として成立している理由は「共産主義」というイデオロギーだけではなく、「漢字」が基本の多様性を保証していたわけですね…。或る意味、同じ文字(見ただけで理解できる表意文字)を使用しているということは大変な連帯感…私が「中国文化」を自分の一部のように愛おしく感じられるのも、そのせいなのでしょう。
文字文化社会において、「訓読み」と「万葉仮名の発明」は表裏一体でした。No.27 菊 咲くころも「孫文のいた頃」で言及した「訓読み」について改めて引用しておきます。
「そして〈漢字〉は朝鮮半島を経由して伝わったにもかかわらず〈当時の朝鮮半島の国々・高句麗、百済、新羅〉ではそれ〈訓読み〉がおこりませんでした。朝鮮半島の国々では〈助詞〉のようなものを補ってそのまま中国読みしていました。
「国語の最も大きな特色は、漢語である中国の文献を、国語に直して読み下すという訓読法によって、漢籍のすべてを国語化することに成功したということにあると思うのです。(朝鮮)半島では、漢籍は音読であった。「學而時習之は不亦説乎である」のように、原文は句やイディオムのまま音読し、その句切りに、「は」「である」に相当する語を、音仮名で小さく加える。いわば宣命書きのような形式です。それで連語は語彙化されるが、字訓の用法は生まれない。しかしわが国では、その文を「學んで時にこれを習ふ、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや」と、完全に国語化してよむのです。」
白川静『白川静先生にお伺いいたします』2002年5・6月「墨」第156号(芸術新聞社)
No.27 菊 咲くころも「孫文のいた頃」
いやはや…上記を書いたのは昨年の8~9月頃ですが、数ヶ月の後に、今、改めて「訓読みの意味」を理解したような気がします。そして当然のことながら、それでは何故?朝鮮半島や越南(ベトナム)には、それぞれの「訓読法」が発明・普及しなかったのかという、大きな疑問がまた生まれます。「日本」を考える上で、非常に気になる点ではあり、或いは既にその解答が一般に流布されているのかもしれませんが、少し考え、調べてもみましたが、今の私の手には負えそうもありませんでした。ただ、漢字を廃止した韓国語、ベトナム語の現状と漢字の持つ意味について、白川静は下記のようにコメントしています。
「我々は漢字の持つ意味内容を通じて、その言葉の持つ意味を理解する。つまり訓読を通じて理解するんですね。もし訓読を通じて理解することができない、あるいは、本来の文字を眺めることができなければ、その言葉はやがて生命力が枯渇して滅びてしまう。少なくとも再生産力を失う。ベトナムにおいては漢字を早くに廃止しました。フランスが占領していまして、漢字を廃止しました。だからベトナムでは、漢語が非常に多いにも拘らず、それを漢語の発音のままローマ字化して使う。しかもベトナムのカナ表記をしておりますから、今の(ベトナムの)人は〈ポシ〉という言葉が「お医者さん」を意味する言葉であるが、本来は〈博士〉という漢字で表された言葉であるということを知らないのです。単なる記号として受け取っておるのです。
また韓国においては、漢語を非常に多く廃しまして、今はハングルで書くという書き方をしておりますが、あれは日本で言いますと、漢語をカナ書きするのと一緒であります。カナで書きますと、言葉の意味内容は正確には把握できない。たんなる約束事になるんですね。これは私自身も大学で(授業を持つ中で)経験したことでありますけれど、大学で出席を取ります時に、名簿はみなカナタイプで打ってあった。現在はどうか知らないですが私の時はカナタイプで打ってあった。50人程ずらっと書いてあるんですね。それで何回読みましても、その人間と結びつかんのです。名前を読んでも、人間の顔が出て来ないのです。私は元の漢字に書き直します。そうして別に作ったものを出席簿として使う。それで出席をとる。そうしますと、名前と人間とが合体するんです。カナでは人間は抽象化されてしまう。つまり漢字をやめるということは、我々の言語生活のなかから、具体性を奪うということなのであります。
白川静『東洋の文化と漢字』(立命館創始130年記念「感謝のつどい」記念講演・2000年)
なるほど、それにしてもやれやれ、行きつ戻りつではありますが、「万葉仮名の発明の意味」が依然より理解できた気がします。そして次回こそ「平仮名の発明」へ移りたいと思います。
以上
2024年1月
追記:万葉の植物② 牧野富太郎と「〈あさがほ・朝顔〉は〈ききょう・桔梗〉?」
前回のNo.30 立春まぢかき「孫文のいた頃」追記で、『万葉集』には多くの植物が出てくること、4500余首の中に植物を詠んだ歌は1700首程、詠まれた植物の種類は150余種類、全体の40%近くの歌に植物が詠まれている、という話をしました。
そして、近代日本の植物学者、牧野富太郎(文久2年・1862‐昭和33年・1957)が、その晩年『万葉植物図譜』に取り組み、完成できなかったこと、そして、一昨年、2022年が牧野富太郎生誕160年で、彼が残した『万葉植物図』、『万葉植物目録』、『万葉植物図譜原稿』という3つの資料を基に、牧野が企画していた『万葉植物図譜』全容の再現を目指した出版物『牧野万葉植物図鑑(北隆館・2022年)』が刊行されたことにふれました。
1200年以上も前に編纂され、写本しか残っていない『万葉集』は未解明の部分も多いわけですが、植物の名称も不確かな部分が多々あり、それを牧野富太郎は最晩年に研究しました。前回は「万葉集に登場する〈あきのか〉という植物は〈松茸〉のことである。」という彼の説をご紹介しました。
「あきのか」については比較的、理解しやすかったのですが、今回は「〈朝顔〉とは〈桔梗〉のことである。」!?という説です。「雑草という草はない」という名言を残した牧野富太郎ですが、さて、見てみましょう。先ず、彼の結論です。
「千年ほど前に出来た辞書、それは人皇五十九代宇多帝の時、寛平四年すなわち西暦八九二年に僧昌住(しょうじゅう)の著わした『新撰字鏡(しんせんじきょう)』に「桔梗、二八月採根曝干、阿佐加保、又云岡止々支」とある。すなわちこれが岡トトキの名を伴った桔梗をアサガオだとする唯一の証拠である。人によってはこれはただこの『新撰字鏡』だけに出ていて他の書物には見えないから、その根拠が極めて薄弱だと非難することがあるが、たとえそれがこの書だけにあったとしても、ともかくもそのものが儼然とハッキリ出ている以上は、これをそう非議するにはあたらない。信をこの貴重な文献においてそれに従ってよいと信ずる。」
『植物一日一題』博品社(平成10年・1998)、オリジナルは東洋書館より(昭和28年・1953)
上記「新撰字鏡(しんせんじきょう)」とは下記です。
「『新撰字鏡』は、平安時代に編纂された漢和辞典、字書で、平安時代の昌泰年間(898年~901年)に僧侶・昌住が編纂したとされる。現存する漢和辞典としては最古のもの。892年(寛平4年)に3巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。3巻本をもとに増補した、12巻本が昌泰年間に完成したとされ、写本が現存する。12巻本には約21,000字を収録。」―Wikipedia
この字書に「桔梗、二八月採根曝干、阿佐加保、又云岡止々支」「桔梗は2~8月に根を採って日に曝(さら)し干す、あさがほ、また岡ととき、と云う」とあり、牧野富太郎によれば、しかも、この字書が唯一の証拠である、とのことです。しかしながら、それにしても1000年以上も前にこんな字書があったのですね…。
「桔梗:阿佐加保又云岡止々支」『新撰字鏡』(群書類従)国立国会図書館デジタルコレクションより
(版が異なるのか、「二八月採根曝干」の説明は有りませんでしたが…。)
ただ、「あさがほ=ききょう」説の、補足として山上憶良(660?-733?)の下記の歌をあげています。
「秋の七種(ななくさ)の歌は著名なもので、『万葉集』巻八に出て山上憶良が咏んだもので、その歌は誰もがよく知っている通り、「秋の野(ぬ)に咲(さ)きたる花を指(およ)び折(を)り、かき数ふれば七種の花」、「はぎの花を花(ばな)葛花(くずばな)瞿麦(なでしこ)の花、をみなへし又藤袴(ふぢばかま)朝貌(あさがほ))の花」である。この歌中のアサガオを桔梗だとする人の説に私は賛成して右手を挙げるが、このアサガオをもって木槿すなわちムクゲだとする説には無論反対する。」
同上
上記、山上憶良の歌のオリジナルは下記2つの歌からなっています。
山上臣憶良詠秋野花歌二首
秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 [其一]
芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 [其二]
『万葉集』第8巻1537、1538番
訓:秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 [其一]
読:あきののに さきたるはなを およびをり かきかぞふれば ななくさのはな
訳:秋の野に咲く花を指折り数えてみれば七種類の花がある。
訓:萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔が花 [其二]
読:はぎのはな をばなくずはな なでしこのはな をみなへし またふぢはかま あさがほがはな
訳:萩の花、尾花(すすき)、葛花、なでしこの花、をみなへし、そして藤袴、朝顔の花。(5・7・7・5・7・7の旋頭歌)
『万葉集』岩波文庫・2013年
現在、「朝顔」も秋の季語ですが、「秋の七草」では「桔梗」と数えるのが一般のようです。そして『万葉集』の中に、少なくとも、「あさがお」と読める言葉が出てくる歌は上記の他に下記4首あります。原文は省略して訓読みと翻訳のみをあげます。そして「朝顔」を古語辞典で引くと下記の説明もあります。
「あさがほ【朝顔】①朝の寝起きの顔。〈寝くたれの御朝顔見るかひありかし・(源氏‐藤裏葉)〉②朝、美しく咲いた花の様子〈わが園へいざ帰りなん朝顔の一花桜花散りにけり・(宇多院物名歌合)〉③草木の名。古くは何の花であったか諸説がある。」
大野晋、佐竹昭広、前田金五郎編『古語辞典』岩波書店・1975年4月
下記「朝顔」の歌について、いちいちのコメントは避けますが、「2104番」は少なくとも「朝顔」ではなく(夕方こそ美しい…)「桔梗」のようです。また「2274、2275、3502番」は「朝顔=桔梗」と解釈しなくても、上記①、②の比喩的な表現で、さらに「寝起きの顔」ではなく、歌の意味からは「朝の清々しい平然とした顔」という比喩で使用しているようにも思えます。
第10巻(2104番歌)作者不詳
訓:朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけり
訳:朝顔は朝露を受けて咲くというけれど、夕方の光の中でこそ最も美しく咲くのだったよ。
第10巻(2274番歌)作者不詳
訓:臥(こ)いまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝顔の花
訳:転々と悶え苦しんで恋死にはしても顔色には出すまい、朝顔の花のように。
第10巻(2275番歌)作者不詳
訓:言(こと)に出でて 云はばゆゆしみ 朝顔の 穂には咲き出ぬ 恋もするかも
訳:言葉に出して言ったら不吉なので、朝顔のようには表に出さない恋をするのだなあ。
第14巻(3502番歌)作者不詳
訓:我が目妻(めづま) 人は放(さ)くれど 朝顔の としさへこごと 我(わ)は離(さか)るがへ
訳:私の愛する妻を人は引き離そうとするけれど、朝顔の(としさへこごと)、私は離れるものか。註:(としさへこごと)は未詳。
同上
桔梗(キキョウ)筆者撮影、2019年9月・於長野県上田市「安楽寺」
「桔梗」は秋の七草の中では、一番華麗で美しい花だと私は思いますが、日本文化にも深く浸透していて家紋等でも一般的な花です。明智光秀や坂本龍馬の家紋は「桔梗紋」で、陰陽師・安倍晴明の紋、京都の清明神社の神紋もいわゆる五芒星ですが「清明桔梗紋」という名称です。また旧日本帝国陸軍の「星のマークに見える★」も「清明桔梗紋」であるという説もあるようです。因みに旧帝国海軍は「櫻のマーク(と錨)」を使用していました。桔梗については「将門伝説」にも繋がり、色々と語りたくなりますが我慢します。
さて、そして更に、それでは「朝顔」は何と名付けらていたのか?という疑問が当然出てきますね。余り深入りしてもしょうがないのですが、調べてみたので一応ふれておきます。そもそも「朝顔」は外来種で、奈良末~平安初期に遣唐使により薬草としてもたらされたようです。
「当該植物が〈朝顔〉と呼ばれるようになったのは平安時代からで、日本への伝来は、奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)と呼ばれ、奈良時代や平安時代には薬用植物として扱われていた。」―Wikipedia
そして、いい加減最後にしますが、それでは「あさがほ」はいつから「桔梗」とよばれるようになったのか?という疑問も当然わいてきます。「桔梗」は日本の在来種ですが、「桔梗」は音読みで、古くは『荘子(そうじ)』の「雑篇の中の徐無鬼篇」にも薬草として出て来るようです。著者、荘周はB.C.3~4世紀頃の人で、正式にまとめられたのが西晋の時代の郭象(かくしょう・252-312年)によってとありますから、薬草・植物の名前としては大陸では固定されていたようです。そして、その薬草としての「桔梗・その乾燥させた根」)が日本に入ってきて、それが日本にも自生しているあの美しい紫色の花(あさがほ)のことで、その時期に「あさがほ」に代わり「桔梗」と呼ぶようになったのでしょう。『古今集』(905年)、『枕草子』(1001年)や『源氏物語』(1008年)には「桔梗」として登場しています。
いやはや、もしここまで読んでいただいたらお疲れ様でした。たった1つの花の名前でも大変な歴史がありますね。全ては繋がっているという「コメ粒は宇宙であり、宇宙はコメ粒に凝縮されている」という「華厳思想」を思い知らされました。
「山川草木 悉皆仏性」とは至言でありました。