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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉜


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

No.32 桜まぢかき「孫文のいた頃」

 

さて、No.25 盛夏でも「孫文のいた頃」辺りからでしたが、中国大陸よりの「儒教伝来」を考え始め、その問題は「漢字・文字の伝来」へとつながり、それは「日本語がどのようにしてできたのか?」という問題となり、ここ半年ばかり、このテーマについて考えています。

 

前回は「無文字社会」から「文字社会」への移行と「文章表記」(言葉を定着させるには文字が必要・言葉と文字の関係)について考えて、「訓読み」と「(万葉)仮名の発明」は表裏一体であったことに気付きました。また「文章表記・叙述」には、「口語文法」を基礎にはしているのですが、「文法」だけではなく「文体」が必要であったということにも気付きました。

 

白川静が「国語の最も大きな特色は、漢語である中国の文献を、国語に直して読み下すという訓読法によって、漢籍のすべてを国語化することに成功したことにあると思うのです。」と語り、ドナルド・キーンが「仮名の出現が日本文化の確立を促した 最大の事件だ」と言ったことは、実は同じことであったと今頃気付いたのでした。(No.26秋分間近でも「孫文のいた頃」参照)

 

今回はその「万葉仮名」から「平仮名・ひらがな」が生れる過程について考えてみたいと思います。ただ面倒なことに、或いは当然のことながら、「ひらがな」が生れる過程を考えるには、先ず「漢字の形・書き方」の変遷について考えなければならないことになります。ここでまた、「漢字の出現」という、大変なところに立ち戻らなくてはならなくなりました。

 

◆「漢字の出現」その「形・書き方の変遷」を考える

今、文字といえば「活字」しか思い浮かばないかもしれませんが、当然のことながら、そもそも、文字は人の手により書かれたものが基本でした。そしてその時代の文字の書き方がありました。現在の、ほとんど「活字」ばかりを目にする私たちの環境からは、「手書き文字」しかなく、それが当然であった時代を、想像するだけでも難しい気がします。今は単純にあっさりと「書道芸術」のジャンルに分類されてしまっていますが、中国大陸に「漢字」が出現し、発展し、それが日本に伝わり、その漢字が日本風に変化していった書体、書き方(運筆)を考えることは、芸術鑑賞の観点からも興味深い問題ではありますが、今ここで考えたいのは「民俗学・文化人類学」の観点からの「漢字の書かれ方」です。

 

「文字」が出現してからは「文字」と「言葉」は表裏一体のものになりました。しかもその「漢字・文字」は、人の手によって、先ず、亀の腹甲や獣骨に刻まれたもの、青銅器の祭器に鋳られたもの、それからしばらくして木・竹簡に書かれるようになったもので、決して、今、皆さんが読んでいるこの「活字」のことではありません。

 

当初、石川九楊が唱える「三筆(空海、橘逸勢、嵯峨天皇)・疑似漢字」から「三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)・和様漢字」、そして「ひらがな」への展開を、と思っていたのですが、中国大陸での漢字の発生から考えないと、その趣旨・意味(疑似漢字→和様漢字)がわからなくなってしまうことに気付きました。ですから、ここで、急ぎ足で「漢字発生とその変遷史」について振り返ってみます。

 

▶ 甲骨文字から金文・漢字・書の中国大陸における歴史

高校の世界史の授業でも習うように、現存最古の「漢字資料」はB.C.13世紀頃、殷王朝の「甲骨文字」で、今から3000年以上も前のものです。ただその発見は比較的最近で、まさしく「孫文のいた頃」1899年の北京でした。(1897年8月16日・孫文31歳・初来日、梁啓超25歳の日本亡命が1898年10月21日)革命家や改良派官僚、清朝留学生達が、日本を舞台に祖国を救うべく活動し、風雲急を告げる清朝政府は「義和団事件」による北京の陥落が1900年8月15日、その前日に西太后(1835-1908)は庶民に変装して西安に逃れています。そんな中で、深入りは避けますが、一方、3,000年以上前の殷王朝時代の文字に気付き、その研究に情熱を燃やしていた人達がいました。何とも映画の1シーンのような感慨深い状況です。

 

少し脱線してしまいました。いや、この「孫文のいた頃」が本筋で、今「漢字の成立・伝来、日本語の成り立ち」の方へと脱線しているわけですが…。さて、話を「漢字」へ戻します。

 

非常に大雑把な鳥瞰的まとめになりますが、漢字の発生は当初「宗教的」なものであり、それが「政治的」なものに変化し、そして「個人・普遍的」なものになっていった…と云えます。

 

「呪術とは、超自然的な力にはたらきかけるための、象徴的行為である。模倣による共感、あるいは追従による感染(憑依)などによって、人はその超自然力を動かし、危機を克服しうると信じた。その呪的儀礼を文字として形象化したものが漢字である。漢字の背景には、そのような呪的世界があった。」

白川静『漢字百話』中公新書1978年

左:「甲骨文(牛骨)」占いの記録1行目『癸丑に貞(と)う、旬に禍いなきかと』
右:「金文(青銅)」祖霊を祀る『作父戊宝彝』

(別冊太陽『白川静の世界』2001年より)

 

「甲骨文より金文へと展開するこの殷・周(B.C.1000~B.C.250年)の時代が、漢字の始原の時期であり、秦漢(B.C.221~A.D.220年)の篆隷以後は、文字の形も安定したものになる。しかしそののち文字に隷書体・草書体・楷書体の諸体が行われるようになってからも、書法はそれぞれの時代精神を具現する高い次元の芸術とされた。甲骨文に用いる文字、すなわち卜文(占い記録文字)は、獣骨や亀版に印刀で刻した契刻の文字であり、また金文は青銅器の鋳型にヘラなどで加えたものであるから、もともと筆勢をあらわしうるものではないが、しかしそれでもなお、そこに時代様式の表現が可能であった。」

白川静『書道講座・5』二玄社・1972年

 


『王』の文字の書体変遷:左から「甲骨文」、「金文」、「篆書」
「金文は甲骨文を金属に鋳込むために改変した文字であり、篆書は金文の持つ神話的表現(例えば、〈王〉字は王権の象徴である〈鉞・まさかり〉型に表現される)を省略し字画からなる文字へと簡略にした文字である。」

石川九楊『書の宇宙・9‐言葉と書の姿・草書』1997年・二玄社

上記に見られるように、獣骨等に刻まれた宗教的な象形文字から発展・変化し字画(漢字を構成する線と点)のみで表現される「文字」になっていきました。秦の始皇帝の「度量衡の統一」の一環としての「漢字の統一(篆書への統一)」でした。

 

▶ 中国大陸から日本に渡来した漢字の歴史的考察

極めて簡略・俯瞰的に中国大陸における「漢字・書」の発生初期段階(甲骨文→金文→篆書)を復習してみました。舞台を徐々に日本に移していきます。以上の中国大陸での漢字の歴史を踏まえて、石川九楊は「日本の書の歴史的特徴」について下記のように非常に解りやすく分析しています。

① (日本の「書」は)書史の前提を欠いている

(本格的に漢字が流入するのが飛鳥・奈良時代であり)日本の書のモデルとなったのは、隋唐時代の楷書体成立以降の中国の書でした。そのため、甲骨文字・金文から篆書、そして隷書に至るまでの〈刻(ほ)る書〉という前提を欠いています。その後も書史の前提である刻る書を積極的に輸入することは、近代までありませんでした。本来、書とは〈かく〉。したがって、鑿(のみ)で〈掻(か)く〉もしくは〈欠(か)く〉〈画(か)く〉ものでした。その〈刻る〉姿を、筆で〈書く〉ことの中に写し込むことによって本格的な毛筆の書が生れたという経緯が中国書史にはありました。ところが、そうした〈刻〉から〈書〉が生れた深みを、日本の書史は最初から見失っているのです。

石川九楊『説き語り日本書史』新潮選書2011年

 

私にとって上記はまさに「目から鱗が落ちる!」…言われて初めてなるほど、と気付かされたことです…。「書く」の語源を調べるべく字源辞典『字訓』にあたってみました。

 

かく【書・画(畫)】四段。字や画をかくことをいう。「掻(か)く」と同源の語で、筆墨以前の表記法は、掻き、きずをつけてしるすことだった。英語のScribeも、もと木や金に線刻を加える意であった。」(白川静『字訓』平凡社2005年)

 

石川九楊は白川静を大変よく勉強しています。そして、上記1972年に白川静が言った「もともと筆勢をあらわしうるものではないが(『書道講座・5』)」と解説しているところを、白川静の優秀な弟子であり、書道家でもある彼は「その〈刻る〉姿を、筆で〈書く〉ことの中に写し込むことによって本格的な毛筆の書が生れ」た、と指摘しています。そしてさらに筆で表す書体になってからも我々に馴染の深い楷書、行書、草書についても下記のように分析します。

 

② 楷書を中心とする楷・行・草の立体的構造に無知である

一般的に私たちは、楷書がもっとも基本的な書体であると考え、楷書・行書・草書の三体は、それぞれ正式・中間・略式の、くずしかたの違いととらえています。しかし実際の書史を見てみると、篆書から隷書、その省略体として、まず草書や行書体が先に成立し、その草書や行書をバネとして楷書体が生れています。そして、隷書という楷書以前の正書体は、新しく誕生した楷書に正書体の位置を奪われました。その後、新たに成立した楷書体からさらに草書や行書が再構成されていくことになります。楷書・行書・草書の歴史的な前後関係と立体構造は「くずし」の度合いという単純な説明で済ませることはできません。」

同上

 

『書』の文字の書体変遷 石川九楊『書の宇宙・9‐言葉と書の姿(草書)』1997年・二玄社より

 

この漢字の書体の歴史的変遷も私には「目から鱗」でした。篆書体から隷書体と草書体が生れ、同時に隷書体からも草書体が生れます。理由は「(漢代の趙壱・ちょういつ・によると)政治統一の進んだ秦の末期になるといっそう法治が進み、官の文書が複雑になったため〈速写〉〈省略〉〈臨時〉の書体である草書が生れたというのだ。この政治の中から生まれた臨機応変の書体である草書体は、書の歴史の鍵を握る重要な書体である。」(石川九楊『書の宇宙・9‐言葉と書の姿(草書)』とあります。

 

そして下記のように結論づけています。

 

省略体である草書の成立は〈書くことの本格的成立〉を物語っている。〈書くこと〉を別名とすると言っていい草書体の象徴が王羲之(おうぎし・303-361)である。そこに、王羲之が書史上重大な意味と役割をもつ理由がある。」(同上)

 


漢代の草書:『広地南部 永元五年至七年 官兵釜磑月言及四時簿』(国宝)
A.D. 93-95年(現在の内蒙古自治区エチナ川流域)出土 台湾歷史文物陳列館HPより

 

エチナ川流域:「古代から開拓の進んだ地であり、漢時代には現在より水量が豊かで、流域には張掖郡が置かれた。居延海付近には属県として居延県が置かれ、その県城はカラ・ホトの地にあった。当地の名称は既に紀元前102年には確認され、強弩都尉の路博徳が匈奴に対する前線基地として築城したとされる。歴史資料として著名な居延漢簡もこの付近で発見されている。東西に走るシルクロードに直交する南北の交通幹線としても利用され、エチナ川に沿って城壁が築かれ、漢時代の将軍である霍去病や李陵も川沿いに兵を進めるなど、主要な軍事拠点ともなった。紀元前にはエチナ川を利用した灌漑農業が行われ大いに栄えたが、紀元後は徐々に衰退し、やがて放棄された。」―Wikipedia

私にとっては「シルクロード」、「カラ・ホトの地(砂漠の中に埋もれた遺跡です)」、「李陵・(中島敦の小説を参照ください)などは、ほぼ夢と憧れの世界ですが、そこから出土した木簡の文字はつい数年前位に書かれたように見えますね…。綴じている紐はさすがに補修した現代の物でしょうか…。

 

「現在、中国大陸文化との交流で遡れるのは、さまざまな異説、議論があるようですが、あの有名な「国宝の金印」でしょうか。日本における最も古い漢字文化の証拠「漢委奴国王印」で、ともかく『後漢書‐東夷傳』に記された、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使に賜った印がこれに相当するとされています。」(No.25 盛夏でも「孫文のいた頃」)

 

「金印」は勿論、特別なものですが、その「金印」が伝わった頃、2000年程前の我々の遠いご先祖様達は、この日本列島のどこかで、木簡や竹簡にこんな文字を書いたりしていたのでしょうね…

 

③ 三折法の理解が浅い

書は筆先に墨をつけて紙に書くものと信じられています。書史の前提である「刻る」ことを知らないため、毛筆が鑿の比喩であること、墨が刻り跡の比喩であること、紙が石の比喩であることを日本の書史は認識してきませんでした。また、ひとつの字画を書くとき、「トン」と起筆し、「スー」と送筆し、「トン」と収筆する、いわゆる「トン・スー・トン」の三折法が、石を切り込み、刻り込み、切り落とす比喩であることにも気づきませんでした。「トン・スー」あるいは「スー・トン」の二折法に較べると、三折法は書を立体的なものにします。ところが三折法に対する理解が浅い日本では、楷書をそびえ立たせた立体的な書史を形成することはありませんでした。しかしそのことはまた、中国では見かけられない小野道風、藤原行成、藤原佐理たち三蹟の優美な行書を生む原因にもなりました。

同上

 

1で解説した「日本の書史」には「書史の前提を欠いている」とほぼ同様のことが語られていますが、それを更に具体的に「運筆の観点」から説明しています。「お習字」で始めに習う「三折法」がその石碑の碑文を刻んだ鑿の動きということは、やはり「目から鱗」です。ちなみに「三折法」とは下記「楷書」の書き方であり、草書は「二折法」です。後に「三筆・三蹟」の比較をしますが、この「三折法」から「二折法」中心への移行が中国から日本の漢字・文字の書き方の独立であったようです。

運筆の「三折法」(ウェブサイト「書道入門」・株式会社 誠 より)

 

上記で「三折法に対する理解が浅い日本では、楷書をそびえ立たせた立体的な書史を形成することはありませんでした」とは言っていますが、それこそが「日本らしさ」になっていきました。因みに石川九楊が敢えて「楷書をそびえ立たせた立体的な書史」と表現しているのは下記のような楷書体の石碑をイメージしてのことでしょう。

 

褚 遂良(ちょ すいりょう596-658)『雁塔聖教序・653年建碑・西安 大慈恩寺・大雁塔内に現存』(部分、拓本)
石川九楊『書の宇宙・8‐屹立する帝国の書(初唐楷書)』1997年・二玄社より

 

何とも雄大・雄渾で美しい立派な文字ですが確かにこの文字から「ひらがな」は生まれ得ず、逆に「楷書」を大きく取り入れなかったがゆえに歴史的に「三折法」も取り入れられなかったのでしょう。だから石川九楊はこんなことも言っています。

 

「日本の文化は宦官と科挙だけではなく、楷書もまた拒絶しました。これ以降の日本書史は、近代に至るまで、楷書体の書をすっぽり欠いています。日本書史は〈楷書なき書史〉」ということもできるのです。」

同上

 

思うに、そもそも「石に文字を刻む文化」「石碑文化」というものが、今振り返れば、日本の感性にそぐわないものであるようにも思えます。古代、中国大陸の影響で勿論いくつか建碑された有名な石碑はあるようですが、その後その伝統は受け継がれなかったように思います。墓石?権力者達は巨大墓石(碑)ではなく、神として神社に祀られ、顕彰碑等は不要だったのでしょうか?話が逸れてしまうので戻します。

 

さて、ところが、明治以降この「楷書体」が主流を占めるようになります。現在ディスプレイに表示されている活字、パソコン等で使用しているこのフォントが「楷書体系列」で、それはまた別の理由があるようですが、後に触れられればふれます。さて、「ひらがな」についての考えを急ぎます。

 

とは言いながら今回も、中途半端なところで紙数が尽きてしまいました。我々が今、只今使っている文字、「漢字・ひらがな・カタカナ」のルーツを探求すべく話を進めてきました。

 

当時、「楷書」は日本には根付かず、「行書・草書」が主流となり、それが「ひらがな」の発明にも繋がっていくはずなのですが、次回はその辺りから、「三筆・三蹟」を基に、しばらく石川九楊説を追っていきたいと思います。

 

付録:

あまり知識があるわけでもない「書」の話に終始し、感動はしましたが少し疲れました。上記、日本が「楷書・石碑文化」を受け付けなかったということから、そういえば仏像も伝来当初はともかく平安時代になると日本の仏像が木彫りになります。中国大陸では仏像も金銅仏や乾漆仏、粘土仏等です。中国大陸に樹木がないわけではないし、日本に石や金属、粘土がないわけでもないと思いますが、生命体としてより我々に近い「樹木」を使ったのはやはり、どこか自然崇拝的、神道的な意識があったのでしょうか?

 

下記はふと思い出したフランスの詩人、小説家・評論家・映画監督…ジャン・コクトー(1889-1963)の堀口大學(明治25年・1892‐昭和56年・1981)の訳で比較的有名な詩です。テーマは「権威主義の否定」のようなものでしょうが、フランスも基本「石の文化」です。詩人は敢えて子供にこんなことを語りかけてみたかったのでしょうか。

 

『偶作』

君の名前を彫り給え

やがて天までとどくほど

大きく育つ木の幹に。

大理石と較べたら

立木の方がいいんだ

彫りつけられた君の名も

一緒に大きくなって行く。

ジャン・コクトー 詩集『用語集』より・1922年 パリ

 (堀口大學 訳詩集『月下の一群』より・1925年)

 

《Piéce de circonstance》

Graver votre nom sur un arbre.

Qui poussera jusqu’au nadir.

Un arbre vaut mieux que le marbre,

Car on y voit les noms grandir.

Extrait de « Vocabulaire » de Jean Cocteau, paru en 1922.

 

以上

2024年2月

 

追記:万葉の植物③ 牧野富太郎と「〈いちし〉は〈ひがんばな〉?」

前々回のNo.30 立春まぢかき「孫文のいた頃」追記で、『万葉集』には多くの植物が出てくること、4500余首の中に植物を詠んだ歌は1700首程、詠まれた植物の種類は150余種類、全体の40%近くの歌に植物が詠まれている、という話をしました。

 

そして、近代日本の植物学者、牧野富太郎(文久2年・1862‐昭和33年・1957)が、その晩年『万葉植物図譜』に取り組み、完成できなかったこと、そして、一昨年、2022年が牧野富太郎生誕160年で、彼が残した『万葉植物図』、『万葉植物目録』、『万葉植物図譜原稿』という3つの資料を基に、牧野が企画していた『万葉植物図譜』全容の再現を目指した出版物『牧野万葉植物図鑑(北隆館・2022年)』が刊行されたことにふれました。

 

1200年以上も前に編纂され、写本しか残っていない『万葉集』は未解明の部分も多いわけですが、植物の名称も不確かな部分が多々あり、それを牧野富太郎は最晩年に研究しました。前回は「万葉集に登場する〈あさがほ・朝顔〉は〈ききょう・桔梗〉のことである」という彼の説をご紹介しました。

 

今回この3回に渡った「万葉植物シリーズ」の最後として取り上げるのは、牧野富太郎の「〈いちし〉とは〈ひがんばな〉のことである。」!?という説です。「雑草という草はない」という名言を残した彼ですが、さて、見てみましょう。『万葉集』に「いちし」は下記、一首のみにしか登場しません。

 

原:路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀孋  『万葉集』第11巻2480番

訓:道の辺の いちしの花いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻は

読:みちのへの いちしのはないちしろく ひとみなしりぬ あがこひづまは

訳:道ばたのいちしの花のように、いちしろく人は皆知ってしまった、我の恋する妻のこことを。

『万葉集』岩波文庫・2013年

 

「壹師花・いちしの花」はこの『万葉集・岩波文庫』でも『岩波古語辞典・1975年』でも「未詳」とあります。「灼然・いちしろく」は上記のように『岩波文庫』では訳されておらずそのまま使われていました。『岩波古語辞典』と『字訓』では下記のようにありました。

 

いちしろし【著し】《イチシルシの古形》①神威がはっきり目に見える。②(思いあたるところが)はっきりあらわれている。③特別に、とりわけ。④(下に打消しを伴って)たいして。―『岩波古語辞典

いちしろし【著】はっきりと表面にあらわれる。ことが明白であり、顕著であることをいう。また「いちしるし」ともいうが「いちしろし」が古形である。「いち」は「甚・いた」「甚・いと」と同根、「しろし」は顕著であること。〈万葉〉の表記には「灼然」を用いることが多い。のち著が常訓の字となった。―『字訓』

 

そして『字訓』では下記4例を『万葉集』よりあげています。

 

原:許母利奴能 之多由孤悲安麻里 志良奈美能 伊知之路久伊泥奴 比登乃師流倍久

訓:隠り沼の 下ゆ恋ひ余り 白波の いちしろく出でぬ 人の知るべく

読:こもりぬの したゆこひあまり しらなみの いちしろくいでぬ ひとのしるべく

訳:隠り沼の下からのように密かに恋心を抱いていましたが、思わず、白波のようにはっきり面に出てしまいました。人に気づかれるほどに。

『万葉集』第17巻3935番

 

原:― 卜部座 龜毛莫焼曽 戀之久尓 痛吾身曽 伊知白苦 身尓染<登>保里 村肝乃 心砕而 将死命 尓波可尓成奴 ―(部分)

訓:―占部据ゑ 亀もな焼きそ 恋ひしくに 痛き我が身ぞ いちしろく 身にしみ通り むらきもの 心砕けて 死なむ命 にはかになりぬー

読:―うらへすゑ かめもなやきそ こひしくに いたきあがみぞ いちしろく みにしみとほり むらきもの こころくだけて しなむいのち にはかになりぬー

訳:―占い師を招いて亀の甲を焼いて吉凶を占ってくださるな。病の原因は恋しさから来ています。はっきりと身に染みとおり、心もちりじりに砕け、私は死ぬ身です。―

『万葉集』第16巻3811番

註:詞書に「夫君を恋ひし歌一首」とあります。夫を思慕し、親は病気の原因を神の祟りと思っているが、娘(私)は、病気の原因が夫君を恋するあまりのことである…の意。

 

原:青山乎 横雲之 灼然 吾共咲為而 人二所知名

訓:青山を 横ぎる雲の いちしろく 我れと笑まして 人に知らゆな

読:あをやまを よこぎるくもの いちしろく われとゑまして ひとにしらゆな

訳:青々とした山にたなびく真っ白な雲のように、私とはっきり微笑み交わしても人には気づかれないようにしてください。

『万葉集』第4巻688番

 

原:早人 名負夜音 灼然 吾名謂 孋恃

訓:隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく 我が名は告りつ 妻と頼ませ

読:はやひとの なにおふよごゑの いちしろく わがなはのりつ つまとたのませ

訳:私は、あの有名な隼人の夜警の声のように、はっきりと自分の名前を申しましたので、妻として信頼して下さい。

『万葉集』第11巻2497番

註:隼人は「薩摩隼人」、この部族は南九州にあり、6年交替で上京し皇城警護についた。夜の魔払いのため犬の遠吠えのような声を発した。

 

以上「いちしろく(灼然・伊知之路久・伊知白苦)」の意味は「顕著」「目立つ」「はっきり・くっきり」であることはわかり、歌の意味はよく理解できます。そしてこの「いちしの花(壹師花)」が「目立つこと」の比喩・典型としてあげられているわけですから「際立って目立つ花」であることも理解できます。そして、辞書でも「未詳」となっているこの「いちし」が何の花であるのか、様々な学者が色々な花をあげ推測していますが、牧野富太郎はそれらに納得できないとし、下記のように推論、そして結論づけます。

 

「そこで私もこの植物について一考してみた。初め、もしやそれは諸方に多いケシ科のタケニグサ(竹似草)すなわちチャンパギク(博落廻)ではないだろうかと想像してみた。この草は丈高く大形で、夏に草原、山原、路傍、圃地の囲回り、山路の左右などに多く生えて茂り、その茎の梢に高く抽(ぬき)んでている大形の花穂そのものは密に白色の細花を綴って立っており、その姿は遠目にさえも著しく見えるものである。」

タケニグサ(竹似草)・チャンパギク(博落廻)
『植物の名前を探しやすいデジタル植物写真集・渡辺担』より

 

「だが私はそれよりも、もっともっとよいものを見つけて、ハッ!これだなと手を打った。すなわちそれはマンジュシャゲ(曼珠沙華)、一名ヒガンバナ(彼岸花)で、学名を Lycoris radiata Herb と呼び、漢名を石蒜(セキサン)といい、ヒガンバナ科(マンジュシャゲ科)に属するいわゆる球根植物で襲重鱗茎(しゅうじゅうりんけい)(Tunicated Bulb)を地中深く有するものである。

 さてこのヒガンバナが花咲く深秋の季節に、野辺、山辺、路の辺、河の畔(ほと)りの土堤、山畑の縁などを見渡すと、いたるところに群集し、高く茎を立て並びアノ赫灼(かくしゃく)たる真紅の花を咲かせて、そこかしこを装飾している光景は、誰の眼にも気がつかぬはずがない。そしてその群をなして咲き誇っているところ、まるで火事でも起こったようだ。だからこの草には狐ノタイマツ、火焔ソウ、野ダイマツなどの名がある。すなわちこの草の花ならその歌中にある〈灼然・いちしろく〉の語もよく利くのである。また〈人皆知りぬ〉も適切な言葉であると受け取れる。ゆえに私は、この万葉歌の〈壱師・イチシ〉は多分疑いもなくこのヒガンバナすなわちマンジュシャゲの古名であったろうときめている。が、ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出て来い、イチシの方言!」

『植物一日一題』博品社 1998(平成10)年4月25日(オリジナル『植物一日一題』・東洋書館、1953年)

 

上記を読む限り、牧野富太郎は「どこにでもあって目立つ」という言葉と、「灼然・いちしるし=炎・赤色のイメージ」の連想から、彼の植物学の知見を総動員して「いちし=ひがんばな」説を立てたようです。文久2年・1862生まれ、御年91歳のじい様の最後の呟き…ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出て来い、イチシの方言!はいいですね。

 

しかし「イチシの方言」はありました。牧野富太郎は「現在何十もあるヒガンバナの諸国方言」と言っていますが、ネット検索の結果、実際、「ヒガンバナ」には千を超える方言があることがわかり、「イチシの方言」もその中にありました。

 

見つけたホームページは、熊本地方の植物を中心に掲載したもので、何故か「ヒガンバナ」へのこだわりが強く、HP作成のクレッジットには「熊本国府高等学校PC同好会」とあります。ただ、最終更新は2010年で、何故どのように、1,000をも超える数の「ヒガンバナの方言」を採取したのか?は明記されていないようです。ただ「数代にわたって同好会のメンバーが収集し、また様々な方々に協力頂いた」旨が書かれており、誠実な印象のHPですから確かな情報だとは思いますが検証はできていません。ただ、私個人として大変感心・感動したので、その情熱と努力に敬意を表し下記にその「ヒガンバナの方言表」あげさせて頂きます。

 また、その名称がどの地域(県)のものであるかを示した表もありました。「イチシ」の発音に似ているのでは…という名称もいくつかありましたが、明らかなものが2つ。「イチシノハナ・三重県」「イチシバナ・山口県」でした。勿論、より詳細な研究・検証は必要なのでしょうが、この結果を見たら牧野先生は泣いて喜んだのではないでしょうか。

 

そして、これは植物学の分野というよりは、明らかに(いちしろく)「民俗学」の分野ですね。そして10年以上も前の成果ですから、現在ではもっとはっきりとしているのかもしれませんが、ここでも学問の縦割りの弊害が出てしまっています。少なくとも2013年版の『万葉集』岩波文庫には反映はされていませんでした。それにしても畏るべし牧野先生の推察!

 

牧野富太郎が企画していた『万葉植物図譜』のための「いちし」の図・川崎哲也(昭和4年・1929-平成14年・2002)筆。
書き込みは牧野自身による。
「川崎哲也筆の印のすぐ下に〈1945〉という制作年らしき数字が書き込まれている。しかし、下段の紙片をめくると〈1949〉とも書かれている。牧野から川崎への葉書は1948年頃に始まっており〈1945〉は〈1949〉の写し間違いの可能性が高いが、本図の作成年はいずれかの年ということになるであろう。」(牧野富太郎83~87歳頃)

『牧野万葉植物図鑑』(北隆館・2022年)

 

 

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