国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座④
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.4 続「孫文のいた頃」
さて、前回、孫文についてもう少しお話をすることを予告しました。
「また孫文と一緒に「中国同盟会」を設立した辛亥革命のもう一人の立役者、黄興も日本語学校・弘文学院、早稲田大学に通い、やはりこのオフィスのすぐ近くに住んでいました。1,200名の清朝留学生があつまったという「孫文歓迎会:1905年8月13日」は飯田橋の「富士見楼」で行われ、また、「中国同盟会:1905年8月20日」は孫文の支援者の私邸でしたが、場所は今の港区虎ノ門のホテルオークラ東京で、数年前に改装されたホテルオークラには、私はまだ確認していませんがその石碑が新たに建てられたとのことです。」
―(No.3「孫文のいた頃」)
革命派の広東人グループ(華中会)のリーダーである孫文と湖南人グループ(華興会)のリーダー黄興との出会いは、上記、1905年、2年振りに日本にやって来た孫文を宮崎滔天と玄洋社の末永節が案内して、黄興の家を訪問し、紹介します(1905年7月28日)。宮崎滔天はその模様を下記のように紹介しています。
「彼らは初対面の挨拶もそこそこに、すでに一見旧知のごとく、互いに天下革命の大問題に向かって話を始める。僕らは支那語は十分に解する力がないので、いかなる話をしているのかわからぬが、とにかく支那の豪傑がここに一堂に相集まって手を握ることの嬉しさに、末永と二人でしきりに盃を傾けていると、やや二時間ばかりというもの、孫と黄の両人は酒にも肴にも口をつけず議論を上下しておったが、終いに万歳を唱えて祝杯を挙げたのだった。」
譚璐美著「革命いまだ成らず・下巻」(新潮社2012年)より「宮崎滔天全集第1巻・孫逸仙、黄興と初対面のこと」
この会合も神楽坂の「鳳楽園」という中華料理店で行われたとあり、このJYDA・HSKオフィスの近くのはずなのですが、少し調べてみましたが場所は特定できませんでした…。
そして、この2人の出会いからわずか1ヶ月足らずで、この「華中会」、「華興会」に章炳麟をリーダーとする浙江人グループ「光復会」が加わり「中国同盟会:8月20日」が成立してしまうわけです。その間に孫文歓迎会:1905年8月13日」飯田橋の「富士見楼」が開かれており、宮崎滔天はこの2人の出会いを「これはまさに中国版の薩長同盟だ」と思ったといいます。
「孫文を長州の木戸孝允に、黄興を薩摩の西郷隆盛に見立てた理由は、なによりも黄興の人柄や風貌が、西郷隆盛を強く連想させたことであった。― 東京帝国大学教授で法学博士の寺尾亨は、後に、『支那の大西郷…一口で彼を評せば底力の知れぬ丁度我が西郷南洲の如き人物であった。彼は平生から深く南洲に私淑し南洲の経歴言行等について細大となく調べておったが彼の南洲に彷彿たるは偶然ではない』と評した(東京朝日新聞1916年11月1日付)。」
譚璐美著「革命いまだ成らず・下巻」
ある意味当然の事かとは思いますが、当時の清朝からの留学生、政治亡命者は日本の明治維新を自国に応用するべく、大変よく勉強をしていて非常に興味を持っていたようです。
上記に「革命派」と記しましが、一方、「改良派」と呼ばれる一派も日本に亡命してきていました。主な人物が康有為と梁啓超です。日本の高校の歴史でも学習しますが、康有為は光緒帝のもと明治維新に倣って清朝の旧体制を変革すべく「戊戌変法」を実施し、しかし、旧守派の西太后の「戊戌政変」の軍事クーデターで追われ、康有為とその右腕の梁啓超は日本に亡命、やはり、彼らなりに清朝を救うべく努力します。彼らも、多くの日本人の支援を受けます。本来、彼らは政府系エリートということもあり、大変な秀才であったといいます。1898年先に梁啓超が来日し、その後、康有為が来日、一時期、やはり、このJYDA・HSKオフィスに近い、市ヶ谷加賀町1丁目に2人で住んでいました。余談ですが、1898年は私の祖母の生年ですから、120年程前と言っても、とても身近に感じてしまいます。因みに梁啓超は明治維新において尊敬していた吉田松陰と高杉晋作にあやかり、日本名を吉田晋としていました。後に彼は政治から離れて清華大学の教授や、北京図書館の館長になりますが、西郷隆盛ではなく、吉田松陰に興味を持つところからして、その個性の一端が想像できます。彼は1912年までの14年もの間、日本に滞在します。
1900年頃のJYDA・HSKオフィス付近の地図
康有為と梁啓超は清国再生の提案書をまとめ、日本政府に提出した。だが、日本は清国政府から『犯罪者を保護している』という強い講義を受けて困惑し、最終的に康有為に国外退去を求めるのである。それは『光緒帝からの手紙』を持っているとして権威をふりかざす傲慢な康有為に手を焼いたこともあるだろう。しかし梁啓超には『学術研究』という名目で日本滞在の許可を出しているから、判断が大きく分かれた。礼儀正しく物静かな梁啓超は、日本政府や日本人から好感が持たれたからである」
譚璐美著「帝都東京を中国革命で歩く」(白水社2016年)
ただ、この「革命派」と「改良派」も共に国を思う気持ちに変わりはないのでしょうが、政治的にはいつの時代にも付きまとう問題ではあります。
「だが実際のところ、孫文の胸中は苦しいものがあった。
日本に留学してきていた中国人留学生の多くは、立憲君主制を支持するものが多かった。横浜の華僑世界では、当初は孫文に共鳴して「興中会」日本支部を立ち上げたものの、康有為や梁啓超が亡命してきて以後は、彼らが組織した「保皇会」に流れて、「興中会」の活動は下火になってしまった。
日本ばかりではない。孫文が世界各国を巡って見たものは、ハワイで産声を上げた「興中会」が有名無実化していたばかりか、アメリカ本土でもヨーロッパでも、世界中の華僑たちが康有為や梁啓超を崇拝して立憲君主制を支持し、「保皇会」の支部組織が続々と生まれ世界的ネットワークを拡げつつあることだった。」
譚璐美著「革命いまだ成らず・下巻」
勿論、その後の歴史がどうなったかを我々は知っているわけですが…
さて、前回言及しましたが、まだ確認していなかった港区虎ノ門のホテルオークラ東京の「中国同盟会発祥の地」の石碑を、先日、見て来ました。残念ながら、ちょっとがっかりしました。誰かの揮毫ではなく明朝体フォント?で刻まれた、しょぼい印象でしたが…無いよりはましなのでしょうか…
中国同盟会発祥の地・石碑(ホテルオークラ東京・東京都港区虎ノ門)
中国同盟会発祥の地・石碑案内プレート
今回は、ちょっと話が込み入ってしまいましたね。ちょっと重いテーマですが、あともう1回、この流れでお話したいと思います。それではまた!
以上
2021年10月