国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㊶
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.41 冬至まぢかき「孫文のいた頃」
松
青山有雪諳松性 碧落無雲称鶴心
青山ニ雪有ッテ松ノ性ヲ諳(さと)リ 碧落ニ雲無クシテ鶴ノ心ニ称(かな)ヘリ 許渾
われみても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく世経ぬらむ 詠み人知らず
和漢朗詠集
◆前回まで(少し複雑になってしまったので整理します)
平安時代における「1000年文字・ひらがな」の成立、普及、定着について考察しました。その理由について、石川九楊氏の説によれば、「ひらがな」を使用して「色紙」に書かれた「和歌」を通じて醸成された「3つの美意識」が重要な要因であると学びました。「ひらがな」の成立・普及・定着は、これらの美意識に深く関連しているとされました。その3つとは、1つ目が「漢字の省略化と音韻の平衡」、2つ目が「文字の連続化」、3つ目が「構成の多彩さ」でした。(No.38『重陽を過ぎても〈孫文のいた頃〉』参照)
この「構成の多彩さ」については、「〈色紙〉上の字配りの構成」を以下の5つに分類しました:❶散らし書き、➋分かち書き、❸返し書き、❹重ね書き、❺見消(みせけち)。特に❸の「返し書き」(先ず「色紙」の中央から始まり、左に進み、それから右端に戻り、再び中央の前に到る)の技法から、日本的な「回帰する時間観」を連想しました。そして、そこから、文化によって異なる「時間の概念」を考えることに拡がっていった(しまった)のでした。(No.39 万戸擣衣声して「孫文のいた頃」参照)
そして前回(No.40 立冬過ぎても「孫文のいた頃」参照)、「個」を重んじ、始まりと終わりを持つ「ユダヤ・キリスト教的時間観」に基づく「線分的時間」から、いわゆる「歴史」という概念が発生し、現代でも問題となっている「歴史解釈とは、歴史問題とは何か?」ということを考えました。
次いで、それとは対極的に「普遍」を重視した「ギリシア的時間」は「円周的循環時間」に基づき「人の普遍性・本質」を探究し、「ギリシア的時間」の考え方からは、直接影響は無いように思えますが、古代中国の『史記』における「人の普遍性・本質の探究」へとつながっていきました。そして、今回は改めて、「古代中国における時間観」について考えてみたいと思います。
◆古代中国の時間観
上記、「古代中国における時間観」について考えてみたいと思います…とは言ってみたもののよく考えると既に前回のNo.40 立冬過ぎても「孫文のいた頃」追記「司馬遷の『史記』と中島敦の『李陵』で、ほぼ結論はでていたようです。川原栄峰の「個と普遍」の観点から考えると古代中国も「円周的循環時間」あるいは「無限の直線時間の中の限られた人生という時間」ということになるようです。補足的ではありますが、加藤周一は下記のように語ります。
「司馬遷は『史記』のなかで、〈三王之道若循環、終而復始・三王(さんおう)ノ道、循環スルガゴトシ、終リテ復タ始ジマル。〉(高祖本紀)と言った。〈三王〉は夏の禹王、殷の湯王、周の文王であり、彼らの道は孟子のいわゆる王道である。王道は終わってもまた始まるから、『史記』の簡潔な文体は「循環スルガゴトシ」の一句をもって要約する。『史記』にはまた〈物盛而衰固其変也・物、盛ンニシテ衰ウルハ固ヨリ其ノ変ナリ。〉(平準書)の語もあり、〈其変也〉は変化の法則を意味するだろう。盛衰の交代が変化の法則であるとすれば、それもまた一種の循環にちがいない。中国の循環史観がヘレニズムの永劫回帰と異なるのは、それが(人間の)歴史的時間に限定されていて、天体の運動には係らないという点である。古代ギリシアの哲学者たちの関心は、宇宙の基本的な秩序の探求に集中していたが、古代中国の思想家たちの関心はほとんど排他的に人間社会に向っていた。『易経』と名家を除けば、諸子百家において然り(例えば墨子や韓非子)、殊に古代儒教においてはもっとも徹底していたと言えるだろう。孔子は怪力乱神を語らず、孟子は決して天上の秩序には触れず、地上の、人間社会の、規範的分析に専念していた。儒教が天上と地上を含む世界の包括的な形而上学として組織されたのは、はるか後に仏教に影響され、仏教に対抗して宋学の理気説が起こってからである。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年・岩波書店
「古代ギリシアの哲学者たちの関心は、宇宙の基本的な秩序の探求に集中していた」という点について考えると、No.40 立冬過ぎても「孫文のいた頃」で考えたことと矛盾しているようにも感じます。(プラトンやアリストテレスは「人間の基本的な秩序の探求」に集中していました…ただ、天体・自然が人間も含むと考えれば整合性があるのかもしれませんが…。)一方、中国の歴史家、思想家が人間、人間社会に焦点を当てていたという点は「人間の普遍性」を考えたということで大いに納得できることです。
ただ、加藤周一は上記でさらっと「『易経』と名家を除けば」と述べていますが、孔子や孟子が『易経』を尊んだことを考えると、「文化時間論」からは逸れるのですが看過できないので、少しこれについて考えてみます。
因みに「名家・めいか」については一応下記ですが、ここでは踏み込みません。「名家(めいか)は、古代中国戦国時代を中心に活動した諸子百家の一派。主な人物に恵施と公孫龍がいる。人間の言葉についての思索(言語哲学)を背景に、「白馬は馬ではない」(白馬非馬)等の奇怪な学説を説いた。秦漢以後に学派は断絶したが、明治期の日本や中華民国初期の中国において、西洋の論理学や哲学、パラドックスと類似視され「中国における論理学」とみなされて以来、再評価されるようになった。しかし現存する文献が乏しいため、実態は不明な点が多い。」―Wikipedia
◆孔子と『易』と「神秘主義」
実は昔から気にはなっていました。上記、加藤周一も語っているように、孔子の「怪力乱神ヲ語ラズ」(『論語・述而篇』)や「未ダ生ヲ知ラズ、焉(いずく)ンゾ死ヲ知ラン」(『論語・先進篇』)、また「夫子ノ性ト天道トヲ言ウハ、得テ聞クべカラズナリ。」(『論語』・公冶長篇)(孔子先生が、ひとの生まれつき、もちまえのことや、天の道理について語られることは、お聞きしたことがない。)ともあります。孔子は神秘主義を否定して、現実社会において理想に燃え、政治家・宰相として善政を敷くべく、またそのような人物を教育するべく努力し続けた思想家という印象が非常に強いのです。No.25 盛夏でも「孫文のいた頃」参照。
一方で、『史記・孔子世家』(「孔子晚而喜易‐<中略>讀易、韋編三絕」孔子晩年易ヲ喜〈この〉ム、易ヲ読ミ韋編三絕ス)と記されています。有名な4文字熟語「葦編三絶・いへんさんぜつ」の出典ですが、孔子が、晩年に易を好んで読んでいたことが記されています。「子ノ曰ワク、我レニ数年ヲ加エ、五十ニシテ以テ易ヲ学ベバ、大ナル過チ無カルベシ。」(『論語・述而』)ともあります。
そもそも、この『易・易経』ですが、あの占いの基、易者さんの『易』です。私がちょっと読んでみてもとても理解できるものではありません。一応、概略説明は下記です。
「天地の間にあるいは陰となりあるいは陽となって変化して万古に已(や)まざる作用をなすものがある。この原理法則を指して道といったのである。ゆえにあるいは陰となり或いは陽となって無限の変化をなす所の原理は一であるが、しかもこの無限の変化作用の中に通貫する所の二元的説明原理を取り出してこれを陰陽と名付け、これによって宇宙の実相を説明しようとするのである。ゆえに易の思想にあっては、陰陽の二元が説明原理なのである。」
高田真治(1893-1975)『易経』解説 岩波文庫・1969年
つまり、『易』とは、あらゆる現象・宇宙を「陰と陽の2元論」で説明している哲学なのでしょう。ただ、私にはほぼ理解不能ですが、或いは、もしかすると非常に「論理的な哲学」であるのかもしれません…。即ち、一般に「未来」まで説明してしまうのは、それにしてもどうか、と感じてしまいます…が、一方、世界に新しいことは起こらないという「循環史観」から考えれば、それこそ「占い・予言」は可能であり、まさしく「時空を超えた普遍性」を根源においてる哲学なのかもしれません。
さて、後に理想主義的思想家・政治家となる孔子ですが、その出自は卑賎の私生児だったということです。母親は巫女だったようで、『論語』からは、そのような彼の生い立ちを伺い知ることを、私は出来ませんでした。ただ、今回のこのコラム執筆のための学習で「神事の世界」で育った…ということを知りました。『孔子世家』にはある程度の伝記的記述があり、これまで『論語』はそれなりに愛読してきたものの、しかし、孔子の生い立ちについて、あまり深く考えたことはありませんでした。
「私はさきに、孔子が巫祝(ふしゅく・神事を司る者、みこ)の子であり、おそらく巫祝社会に成長した人であろうと述べた。それはその伝記的事実の解釈から自然に導かれたものであるが、儒教の組織者としての孔子を考えるとき、このことは必要にして不可欠の条件であったと考えられる。古代の思想は、要約すれば、すべて神と人との関係という問題から、生まれている。原始的な信仰から、思想が生れ、また宗教が生れるのであるが、それは民族的な精神の自覚の方向によって、そのいずれか(思想 or 宗教)が選択されるのである。私はここでも、デルフォイの信託の意味を問い続けたという、ソクラテスのことを想起する。それはやがてその門人たちによってみごとな形而上学に展開するが、これに対して儒教は、きわめて実践性の強い思想として成立した。それはおそらく孔子が、巫祝たち、聖職者によって伝えられる古伝承の実修を通じて、その精神的様式の意味を確かめようとしたからであろう。」
白川静(1910-2006)『孔子伝』中公文庫・1972年
ソクラテス(B.C.470-B.C.399)も孔子(B.C.552-B.C.479)もほぼ同時代の人物であり、2人とも「原始的な信仰」が充ち満ちていた社会の中で生きていました。今から2400~2500年程前の時代のことです。
「孔子は学を好む人であった。憤りを発しては食を忘れ、楽しんでは憂いを忘れ、老いゆく身も気づかぬほどの人である。
(葉公(しょうこう)、孔子ヲ子路(しろ)ニ問ウ。子路対(こた)エズ。子ノ曰ク、女(なんじ)奚(なん)ンゾ曰ハザル、其ノ人トナリヤ、憤リヲ発シテ食ヲ忘レ、楽シミテ以テ憂イヲ忘レ、老イノ将ニ至ランストスルヲ知ラザルノミト。)(葉公が孔子のことを子路にたずねたが、子路は答えなかった。先生はいわれた。〈お前はどうしていわなかったのだ。その人となりは、学問に発憤しては食事も忘れ、道を楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかずにいる、というように。〉)『論語・述而』)
しかし孔子が学んだものは必ずしも古典ではない。古典の学は、このときなお未成熟であった。しかも孔子の学は〈学びてときにこれを習う・『論語・学而』〉というように、実修を必要とするものであった。― 中略 ―実修こそ、孔子の教学の根本であった。それは孔子の学が本来、巫史(ふし・祭事・神事を司る者。巫祝と同義)の学であったからである。孔子はその実修を通じて、伝承の世界を追体験し、その意味を再解釈し、それを(論理的・現実的に)意義づけようとした。これらの伝承はおおむね神事や儀礼に関しており、巫史たちによって伝えられてきたものである。儒の源流は、そのような巫史の学に発している。」
同上
「孔子が、古い神巫の世界、老彭㊟(ろうほう)への回帰を示したのは、おそらく最晩年でのことであろうと思われる。陽虎(ようこ)へのいまわしい怖れも消え、周公(しゅうこう)を夢にみることも絶えたのちに、孔子は自己の出発点であった巫祝の世界、すべての存在の根源として、あらゆる生にかかわる神秘のすがたを直観したいと思ったのであろう。おそらく何かそういう深い霊感が孔子を包んだときのことであろうが、孔子は突然つぶやくように、〈われ言うことなからんと欲す・(私はもう何も言うまいと思う。)〉といった。子貢(しこう)が驚いて、〈子もし言わざれば、少子何をか述べん(先生がもし何も言わなければ、私達門人は何を受け伝えたら良いのでしょう…。)〉といぶかしげにいう。しかし孔子にとって、〈述べる〉ことは今は超えるべきものであった。孔子はしずかに、〈天、何をか言わんや。四時行なはれ、百物生ず。天、何をか言はんや・(天は何かを言うだろうか?四季は廻っているし、その中で万物も成長している。天が何かを言うだろうか?)〉(『論語・陽貨』)と答えている。天道の流行(世間に盛んに行われる)して止(や)まざる世界、万法が流転のうちにその実相を具現する世界、それは今まで、孔子がほとんど口にすることのなかった、形而上の世界である。巫の伝統は、孔子において、その極限のところまで高められていった、ということができよう。」
㊟老彭(ろうほう):「子ノ曰ク、述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム。竊(ひそ)カニ我ガ老彭ニ比ス。」『論語・述而』(先生が言われた、〈古いことに基づいて述べて創作はせず、むかしのことを信じて愛好する。そうした自分をこっそりわが老彭の態度にも比べている。〉
「しかしこの老彭が何びとであるのか、従来定説がない。七百年の長寿を保った彭祖だという人もあり、孔子が師事した老子のことだという人もある。― 中略 ―老彭は、おそらく彭氏の巫のことではないかと思う。「述べて作らず」とは巫の伝統である。孔子はここに、みずからを巫祝者の伝統の中においているのである。」
同上
「儒教」が「神事や儀礼を扱う」ことは知っていました。しかし、なるほど、このように説明されれば孔子が『易』を好んだのも理解ができます。そして孔子の「伝承の世界を追体験し、その意味を再解釈し、それを意義づけようとした」ということは、儒家が祭礼の儀式を司り…人智を超えたものに畏れ敬意をはらったが、ただ、それについては、人語で説明のできないことだから、孔子はあまり語らなかった(「怪力乱神ヲ語ラズ」、「未ダ生ヲ知ラズ、焉ンゾ死ヲ知ラン」)、ということなのでしょう…。
少し飛躍した考えかもしれませんが、下記の言葉を思い出しました。勿論、孔子がそう考えていたかどうかはわかりません。あくまでも私自身の思い付きに過ぎません。
6.522 There is indeed the inexpressible. This shows itself; it is the mystical.
7 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
Ludwig Wittgenstein “Tractatus Logico-Philosophicus” 1933
6.522 実際、言い表しえないものは存在する。それは神秘である。
7 語りえないものについては、沈黙しなければならない。.
ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951) 『論理哲学論考』 1933
加藤周一の「孔子は怪力乱神を語らず、孟子は決して天上の秩序には触れず、地上の、人間社会の、規範的分析に専念していた。」から大変な寄り道をしてしまいましたが、白川静の説により「儒の源流は、そのような巫史の学に発している」という視点は私にとっては新発見でした。
◆続・古代中国の時間観
さて、古代中国の「循環史観」でした。司馬遷はその『史記』の中で、「人間」=「無限の直線時間の中の限られた人生という時間」=「その点において全ての人間に共通・普遍」≒「人間に繰り返される生死の時間」≒「その中で人間は何をしたのか?」ということを探求したように思います。(No.40 立冬過ぎても「孫文のいた頃」参照)
「無限の直線上を一定の方向へ流れる時間概念は、しばしば無限に円周上を循環する時間の概念と、同じ文化の中で共存する。たとえば古代中国の一方に循環史観があり、他方には天地の間に万物が去来し、光陰は去って再び帰らないという直線的な時間の意識があった。(夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。『春夜宴桃李園序』李白)天地(自然)は永遠で、常にそこにある。時間には始めもなく終りもない。しかし万物(すべての個物)はあらわれては消え、人生は反復されない。ある年の桃李園の春夜(時間線上の一刻)さえも一度過ぎれば再びそこへ戻ることはできないだろう。従ってその一刻=〈今〉が貴重だということになる。―中略― 知的で精神的な中国にとって、天地の始めは無く、従って時間の始めもなかった。また終末論のなかったことは言うまでもない。時間は無限の直線であるという考えは、李白ばかりでなく多くの詩人に共有されたのである。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年・岩波書店
古代中国における「循環史観」と「無限直線時間内の有限な人間の時間観」は、ある意味「普遍」という視点から考えれば、同じことなのかもしれません。さて、今回は延々と寄り道(孔子と神秘主義)してしまいましたが、次回はこの加藤周一の『日本文化における時間と空間』に拠って「仏教における時間観」から考えてみたいと思います。勿論、目指しているのは「日本文化における時間観」です。
以上
2024年11月
追記 ▶シルクロード❶蘭州と敦煌・莫高窟と仏教伝来の道と華厳哲学
11月中旬に蘭州大学のご招待で蘭州と敦煌とその周辺を訪問しました。蘭州大学は甘粛省蘭州市にある設立1909年の国家重点大学で、学部学生2万人、修士課程学生1万人、留学生500人、教職員5千人程の総合大学です。留学生を受け入れる「蘭州大学国際交流文化学院」は2002年の設立です。蘭州市も人口440万(日本第2位の横浜市の人口が370万人)、街の西から東へと黄河が流れる、近代的な美しい街でした。
左:「中山橋」(勿論、孫文の号、中山から)1909年竣工、黄河に架けられた初の鉄橋。南岸から。
右:黄河北岸にある「白塔山公園」を南岸から。
抗日戦争の舞台にもなり、また1949年、国民党軍(蒋介石)と共産党軍(毛沢東)が蘭州で衝突、この中山橋を獲ることで共産党軍が勝利したという場所でもあります。
―2024年11月筆者撮影
さて、蘭州と西安(長安)は直線距離で600㎞です。そして蘭州から敦煌までは900㎞、飛行機で1時間半ほどの距離ですが、かつてこれらの都市を結んでいたのが所謂「シルクロード」と呼ばれた街道でした。私は約30年前にご縁があり、勿論空路で、西安-蘭州(乗り継ぎのみ)-敦煌という経路で敦煌を訪れたことがありました。やはり今回も、敦煌までで、その先には行けませんでしたが、敦煌の莫高窟(ばっこうくつ・千仏洞)とその周辺の砂漠を見ながら、蘭州の土地を歩き、つきまとうように頭の中にあったのは「シルクロード」という言葉でした。
そもそも「シルクロード」ですが、19世紀にドイツの地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトフォーフェン(1833‐1905)が1868~72年に中国の調査を行い、『China』を刊行、そこに初めて、ユーラシア大陸を横断する交易の道を、その交易品の代表としての「絹」から「Seidenstraße・絹の道・絲綢之路」と使用したことに始まります。以降、どのようにこの言葉が定着していったかの過程は省略しますが、ともかくそれ以降の150年以上に渡り、様々な研究がなされてきました。そして特に日本人には、遥かな郷愁と共に、ギリシアのパルテノン神殿の柱から唐招提寺の柱へ、或いは奈良の正倉院にまでつながる、「シルクロード」という用語が定着しています。
と、ここまで書いて、今回の旅への感動過剰なのか、「追記 ▶シルクロード❶蘭州と敦煌・莫高窟と仏教伝来の道」と題してみたものの何だか考えが全然まとまらず、思い当たったことはこの魔法のような呪文のような言葉「シルクロード」のせいなのかもしれない…ということでした。たった6文字のこの言葉の中には、西洋も中東も中近東も砂漠もラクダの隊商も仏教も唐詩も長安も遣唐使も空海の留学も三蔵法師も西遊記も正倉院の宝物もすべて入っていて…そのせいで、あまりにもテーマが多く、それぞれが眩しくチラついて混乱しているのかもしれません。たしか、司馬遼太郎にこの辺りを簡潔に述べていた文章があったはず!と思い、探したらありました。
「〈なぜ日本人はシルクロード(西域)が好きなんですか〉と、中国人からしばしば質問される。たいていの中国人にとって新疆ウイグル自治区(西域)など、単なる田舎にすぎない。が、遠いむかしの長安の人士にとっては、西域こそきらびやかな詩情の世界であった。〈葡萄の美酒 夜光の杯・王翰〉で象徴され、また長安の辻で旋舞を踊る胡姫(こき・ペルシャ系の美女)に代表される。あるいは詩の一景として白亜に青い瓦を置いた景教徒(けいきょうと・ネストリアン)の寺が登場し、さらには、はるかに流沙が詩の中に横たわることによって、人生の別離のかなしみが深まる。中国人にとって唐は歴史の連続のなかの一時代にすぎないが、日本人にとって唐代290年はことさらに屹立(きつりつ)しているのである。建物・彫刻などの造形的な文化は奈良朝に移され、唐の詩文は、平安朝に伝承されたといっていい。特に遣唐使の廃止(894年)以後は、文字に親しむ男女のすべてが『白氏文集・はくしもんじゅう・白楽天の詩文集』に傾斜し、その詩が『古今和歌集』や平安朝文学に影響したところははかりしれない。日本が唐の衰亡の前に縁を断ったことで、かえって唐が日本文化の中に生き続けたのである。唐詩は人類の遺産でありつつ、とりわけ日本人にとっては『万葉集』や『古今和歌集』と同様、日本語世界の先祖の遺産ともいえる。」
司馬遼太郎『唐へのゆたかな誘い』・『波』1989年1月号・新潮社
司馬遼太郎のおかげで「シルクロード」が整理されたような気がして少し、すっきりしました。気を取り直して、シルクロードを渡って最終的に6世紀中葉には日本に到達する「仏教」の伝来について語りたいと思います。
◆北伝仏教と南伝仏教
仏教がインドから周辺地域に広がる過程で形成された2つの主要な伝播ルートを言うわけで、高校の歴史でも学習した記憶があります。ここではその違い等を吟味するのが趣旨ではないのですが、下記に一応、極めて大雑把な概略のみをまとめておきます。日本に伝来したのはこの北伝仏教でした。
今回の敦煌訪問で、中央アジアの砂漠の一端を見て、砂漠を歩くということによって、この「北伝仏教」を強く意識し、ここを通過して日本に仏教が来たのか…という実感のようなもの…、石窟内の撮影は禁じられていますが、我々にとって身近な、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ・大仏)や弥勒(みろく)菩薩があり、維摩(ゆいま)菩薩があり釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)があり、それらを見て、そんなことを感じたのでした。
敦煌・莫高窟外観―2024年11月筆者撮影
因みに「莫高窟」の概要は下記です。
「敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2,400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000㎡ になる。作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔(らくそん)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。」‐Wikipedia
◆シルクロードの「天山南路」と「西域南道」
さて、B.C.2世紀頃には完成していたというシルクロードです。詳細なルートはたくさんあり省きますが下記、大きく2つの道がありました。1つは、左端の「喀什市・カシュガル市・新疆ウイグル自治区カシュガル地区」が中国最西端の町です。タクラマカン砂漠を前にしてここで砂漠を北に回避して天山山脈の南側を通るルート、「庫車市・クチャ市・新疆ウイグル自治区アクス地区」を経由して敦煌に向かう「天山南路」です。もう1つは砂漠を南に回避「和田市・ホータン市・新疆ウイグル自治区ホータン地区」を経由し、敦煌に到る「西域南道」です。
仏教はこの「和田・ホータン」を経由する「西域南道」を通って日本に伝わったようです。7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途、このルートを通っています。また、上記「★ルンビニ」が釈迦の生誕地です。少し見にくいですがすぐ上の青〇は現在の「尼泊爾・ネパール」その左の青〇が「新徳里・ニューデリー」という位置関係です。
そしてこの砂漠の中のオアシス都市「和田・ホータン」が奈良の「華厳宗総本山東大寺」の宗旨の礎「華厳経」が生れたところでした…。ご存じのように釈迦の始めた本来、自己の修行により「解脱」を求める「仏教」はその後どんどんと変容して「大乗仏教」が誕生します。
「本来の仏教は解脱が目的であって、救済の思想はなかった。救済の宗教であるキリスト教では、いきなり神がわれわれを救ってくださる。しかし釈迦の仏教にあってはみずから悟って真理に合一させねばならない。仏が人間を救うなどは、めっそうもないことだった。劇的なことに、大乗仏教が出るにおよんで、救済が入ったのである。ここで仏教は大きく変身するのだが、このことを奈良朝のひとびとに委曲をつくして教えたのが、華厳経であった。華厳経以前の奈良朝の人は、せっかく仏教を受容したものの、断片ばかりで困りきっていたにちがいない。ひょっとすると、仏教に接したがために厭世的にさえなった僧が多かったのではないか。ところが、華厳によると、毘盧遮那仏という真理(悟りのすがた)からみれば、仏や菩薩が毘盧遮那仏の悟りのあらわれであるだけでなく、迷いもまた毘盧遮那仏の悟りのあらわれであるとされる。人間どころか、草や石、あるいは餓鬼や地獄まで法(毘盧遮那仏)に包摂され、一つの存在がすべての存在を含み、また一現象が他の現象とかかわりつつ、無碍に円融してゆくというのである。となると一切の衆生は当然のありかたとして仏になってゆく、ということになる。奈良仏教は華厳経を得ることによって初めて陽光の世界に出たのである。」
司馬遼太郎『この国のかたち』第2巻-30「華厳」(文春文庫・1990)
これが聖武天皇の天平17年(745)大仏・毘盧遮那仏建立開始、天平勝宝4年(752)のに開眼供養会(かいげんくようえ)になるわけです。それにしてもA.D.3世紀頃に和田(ホータン)辺りで成立した華厳経が300年かかって8世紀の日本に伝わり、その思想が今も我々の中に生きているのはなんとも不思議なものです。
和田(ホータン)はかつては「于闐国・うてんこく」と呼ばれるオアシス国家で、「西域南道」の要衝の地でもあり、良質の「玉・ぎょく」を産出する非常に豊かな国でした。色も白、黄、碧、墨色と様々で、今回の訪問でも、蘭州の空港の売店で「和田玉」は美しいアクセサリーとして売られていました。
「『華厳経』が成立してゆく時間は、何年、もしくは100年というような規模だったかもしれないし、執筆された土地も、インド内部ではなく、中央アジアである、とよくいわれる。その中央アジアも、一ヶ所ではなく、あるいは転々としたかもしれないが、その転々のなかに、いにしえの「于闐国」も入っていたろうと私は考えたい。(音韻学者のなかに、『華厳経』にはホータン特有の音が入っているという説がある。)」
司馬遼太郎『華厳をめぐる話』(井上博道撮影『東大寺』解説・中央公論社1989年)
結局、今回とりとめのない話になってしまいましたが、最後に「華厳思想」についてすこし整理、説明しておきます。
◆華厳哲学
司馬遼太郎は「華厳哲学」が好きでした。私は「華厳哲学」については、ほとんど司馬遼太郎から学んでいます。彼はある講演でこんな風に語ります。
「私の話は、ほとんどためらいの連続です。日本人がもし腰をいれて世界の組合員になる気なら、いまの日本の場合、文明の責任をもたざるをえません。ふるくからの先進国-イギリスやフランスのような-は、内心、滑稽さを感じて、〈日本に、それをやるだけの哲学があるのかね?〉とささやくかもしれません。じつは、日本には、そういうものはあるんです。牢固としてあります。唐突のように思われるかもしれませんが、華厳の哲学です。華厳の哲学というのは、日本人が大好きだった『大日経』、『仏説阿弥陀経』などに入っている思考法もしくは世界把握法です。いまは俗哲学として日本人の血肉の中に入っています。キリスト教のような絶対者がいる思想ではなく、世界を相対的なものとして、それが光明の根源に総和されているという考え方です。光明を鑚仰しつつ、万物は、お互いさまという思想です。みな関連しあって、小は原子や分子のレベルから大は宇宙にいたるまで、すべてがお互いのおかげで生かされている、という考えであります。」
司馬遼太郎『踏み出しますか』「21世紀の日本」委員会創設記念フォーラム講演・1991年
「華厳の哲学」として彼はここではさらっとコメントしているだけなのですが、実は大変なことを語っています。これだけでは少し解かり難いかもしれませんが、このコラム「孫文のいた頃」の大きなテーマでもある、「日本とは何か?」ということにもかかわることです。
勿論、私には簡潔に「華厳哲学」についての解説をする能力はありませんが、「華厳哲学」という世界の理解の仕方についての一例をあげておきましょう。
「華厳哲学」の、例えばその考え方のひとつに「重重無尽・じゅうじゅうむじん」即ち、「世界は全て密接に関係し合い(重重)、果てしなく(無尽)繋がって構成されている。」という考え方があります。「全てが支え合っている」と考えてもいいかもしれません。まあ、そうなると、世界に不要なものは無くなってしまうのですが…。
一般的な例としては、よく言われる「1粒のお米の話」でしょうか。俗に「お米という文字は八十八と書いて、八十八人(多くの人・無数の人)のおかげでいただくことができる。」と言ったりします。今、目の前に「1粒のお米」があったとします。金銭的な価値はほぼ皆無でしょう。しかし、この米粒は突然出現するはずはなく、或る意味当然、さかのぼれば無限(無尽)に宇宙の歴史のはじめにまで遡ることができます。また、人事についても、運んできたトラックを見れば、自動車の発明から、トラックが走れるための道路、その舗装、信号機、それらを作成した人々とそのご先祖様等々、縦横に無限に関係していきます。唯一の絶対者がいるわけではなく、全てのものが関わり合い、支え合いして世界は構成されているという考え方です。私もこの考え方が大好きです。
そして、それにしてもこの「華厳哲学」が、美しい「玉」が採れるオアシス国家(于闐国・和田)で1800年近く前に生まれ、敦煌…蘭州…長安…のシルクロードを辿り、それが奈良の東大寺にまで伝わり、私の場合は司馬遼太郎を経由して、それを少し学習・思い出して、今現在の私の感覚の中にまで息づいていることが確認できることこそ時空を超えた「重々無尽」の関係ということなのでしょう。
世界・宇宙は全て関係し合い、支え合っているという真理の象徴としての東大寺の毘盧遮那仏
さて、今回、No.41は「古代中国の時間観」と「孔子における神秘主義」と「シルクロード」と「華厳哲学」…少し難しく、とりとめない内容になって自分でも収集がつかなくなっていまいました。次回「No.42コラム追記」は、今回初めて訪れた、敦煌市中心から西に50~60キロ離れた「陽関」と「玉門関」と「漢長城」と唐詩について語りたいと思います。