国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㊷
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.42 梅もまぢかき「孫文のいた頃」
春
背燭共憐深夜月 踏花同惜少年春(春中盧四周諒華陽観同居) 白楽天
燭ヲ背ケ共ニ憐レム深夜ノ月 花ヲ踏ミテ同ジク惜ム少年ノ春(春中ニ盧四周諒(ろししゅうりょう)ト華陽観ニ同居ス)
春の夜の 闇はあやなし 梅の花色こそ 見えね香やは 隠るる 凡河内躬恒
和漢朗詠集
◆前回まで
前々回の「No.40 立冬過ぎても孫文のいた頃」から、「文化によって異なる時間の概念」をテーマに考え始めました。その中で、「ユダヤ・キリスト教文化における時間観=線分的有限時間観」と「ギリシア的時間観=円周的循環時間観」の対比を通じて、「個」と「普遍」の問題へと議論が発展しました。「始めと終わりのある線分的時間観」では、歴史の中心に個人が位置づけられ、人の数だけ歴史が存在するという考え方が生まれます。一方、「円周的循環時間観」では、個人の存在意義は希薄となり、「人とは何か」という普遍的な問題が重要視されます。この「個」と「普遍」の対立に関連して、11~12世紀頃の中世ヨーロッパ哲学界では、「唯名論と実念論」の論争が展開されました。この論争は、キリスト教神学がギリシア哲学を援用したことに深く起因しています。あまり深入りしないと前置きしましたが、このテーマは現在でも結論のついていない有名な問題でもあり、気になる方もいらっしゃるようなので敢えて再度挙げておきます。ご興味のある方は、更に是非ご自身で考えてみてください。
-唯名論(ノミナリズム・Nominalism):「個〈具体的存在〉」(この私)が「普遍〈言葉・抽象概念〉」(ひとりの人間)に優先する。(ユダヤ・キリスト教的時間観)
➡「普遍」は概念的名称・名前に過ぎない。本当にあるのは個々、個人という具体的なもの。
「キリスト教徒が〈なんじこれを信ずるか?〉とイエスに問いかけられて神の前に立たされる時、彼はたったひとりで〈この私〉として立っている。二等辺三角形の底角が等しいということなら、〈この私〉でなくても理性的人間なら誰でも承認する。ところが、天地創造、処女受胎、復活、―これは理性的生物たる人間ならば誰でも承認できる、というようなことではない。むしろ理性的には承認できないことである。むしろ、人間を普遍的に結び付けているこの理性にあえて逆らって、〈われ信ず〉という冒険を、暴挙を、賭けを、決断をするのでなければ、とてもこれは承認できない。決断は意志のわざである。理性は人間を普遍的に結びあわすが、意志はひとりひとりを切り離す。信ずる〈この私〉は意志の主体として、神の前にただひとりで立っている。この〈この私〉はひとりの人間でさえもない。人間といってもいまだ単なる空語にすぎない。〈この私〉が神を信じてこそ、初めて〈神の似姿として神によって創造せられたるもの-人間〉という概念が決定するのだ。」
川原栄峰『哲学入門以前』1967年・南窓社
-実念論(リアリズム・Realism):「普遍〈言葉〉」(ひとりの人間)が「個〈その物〉」(この私)に優先する」(ギリシア的時間観)
➡「個」の存在は循環する宇宙の一部であり、普遍的な法則や本質が個々の存在を包括している。
「ところが、誰でもこの私であると簡単には言えないのである。ギリシア人はこの私として生きたのではなく、ひとりの人間として生きた。二等辺三角形の底角が等しいということを承認するのは、この私ではなくて、ひとりの人間なのである。人間のひとりなら誰でもこれを認めるだろう。ギリシア人にとって、この私などというものはせいぜい100年しかもたぬはかないものであった。ソクラテスがソクラテスであり、プラトンがプラトンであるなどということは少しも重要なことではない。ソクラテスがソクラテスであるのは69年、プラトンがプラトンであるのは81年しか続かなかった。そんなことが大切なのではなくて、ソクラテスがひとりの人間であり、プラトンがひとりの人間であり、ともに人間の普遍的本性を具えている、実現しているということが大切なのである。この普遍的な人間の本性は永遠に普遍である。ギリシア人はこう考えた。つまりギリシア人はこの私という個よりも、ひとりの人間という普遍の方を重視したのである。」
No.40 立冬過ぎても「孫文のいた頃」(川原栄峰『哲学入門以前』)
そして「古代中国の時間観」はギリシア的時間観に似ていました。
「さて、『史記』、『李陵』を通しての古代中国の「時間観・歴史観」です。上記「史記百三十巻、五十二万六千五百字」とありますが、様々な人間が、生まれて生きて死んだ…という観点からは「ギリシア的時間観」の「普遍」に極めて近いのでしょう。個人に焦点を当ててはいるものの、英雄も義人も武人も佞臣(ねいしん・口先巧に主君に媚び諂う、心の邪な家臣)も、それぞれの観点はあるにせよ、美しくも、醜くも「人間とはこのようなものである、ありうる」ということが描かれています。即ちここにおいて「時間」とは過去でもなく未来でもなく、永遠に続く、普遍的な「人の生きている時間・人生」のことであり、『史記』においては、登場人物1500名程の例を挙げ、今から2000年前に、人間・我々の本質(普遍)を語りかけていました。」―No.40立冬過ぎても孫文のいた頃
そして、古代中国における時間観。「循環時間観」と「無限直線時間観」は共に「無限に対する有限な小さな人間」という視点において「普遍」を尊んでいる点において同じであることをみました。そして、その流れからかなり寄り道的に、必ずしも合理的でない孔子の思想とその生い立ち、「孔子晩年易を喜(この)む」の理由を白川静を頼りに延々と考えました。孔子が巫祝(ふしゅく・神事を司る者、みこ)の子という出自で、さまざまな「神事」を熟知していたはずでありながら(儒の源流は、そのような巫史の学に発している-白川静『孔子伝』)「神事・伝承の世界」を追体験し、その意味を再解釈し、それを(論理的・現実的に)意義づけようとし、それ以外の「語れない事(神秘)については沈黙してきた」孔子が、晩年その「語れない事・神秘」について興味を表明し始めたのは、当然であった。という結論でした。ただこれは古代中国の時間観とは関係のない、しかし重要なエピソードではありました。
さて、今回は「仏教における時間観」から再開、日本の時間観へと迫ってみたいと思います。
◆仏教における時間観
「仏教は時間をどう考えてきたか。その問題を体系的に論じることは、本書の領域をはるかに超える。ここでは、北インドから中央アジアを通って北中国に到りさらに朝鮮半島と日本列島にまで及んだ大乗仏教について、実に多くの考え方の混在を指摘すれば足りるだろう。周知のように大乗仏教は、すでにインドで民間信仰のさまざまな要素を吸収し、その長い東漸の道程でそれぞれの地域文化の影響を受け、東北アジアで発達した。さまざまの考え方の、必ずしも相互に矛盾しなくはない混在は、おそらくそれらの考え方が異なる文化または信仰体系に由来したからであろう。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年・岩波書店
先ず、加藤周一はここで体系的な「仏教の時間観」を扱うことは無理としています。まあ当然で、ちょっと想像しただけでも、「経典」、「宗派」、「時代」等々においてさまざまな発展形態があり、それだけでも気が遠くなるような感覚に襲われます。偶然、前回「No.41 冬至まぢかき「孫文のいた頃」追記」であつかった北伝仏教・大乗仏教の発生と発展についてさまざまな地域の文化の影響をうけたであろうことに言及するのみにとどめてはいますが、それでもいくつかの象徴的な仏教的時間観をあげています。とりあえず、ここではそれを紹介するのに留めます。
「輪廻思想」:「生死は限りなくくり返されるから、時間を無限の循環とみなすこともできるだろう。しかし一つの生と次の生とは必ずしも同じでない(人→牛)。反復されない2つの出来事の関係は業(行為)とその結果、すなわち因果関係である。因果関係が必要とするのは出来事の前後関係であり、前後関係は円周上を循環する時間ではなく、直線上を前進する時間において明瞭である。「輪廻」は中ば循環的、半ば直線的時間を示唆するだろう。」
同上
「弥勒(みろく)信仰」:釈迦仏の入滅後56億7千万年の未来の彼方に衆生を救いにくるという「弥勒菩薩信仰」です。果てしない数字が明記されていますが、仏教で興味深いのはこの意味もない?具体的な時間の果てしなさを表現する文言が沢山出現します。例えば通常会話にも使う「未来永劫・みらいえいごう」の「劫」です。「劫」は仏教における極めて長い宇宙論的「時間の単位」です。曰く(『大智度論』には〈1辺4000里・現代中国の換算比で2000kmの立方体の岩山〉を100年に1度薄絹で触れ、その岩山がすり減って完全になくなるまでの時間が経過してもまだ「1劫」に満たない」)―Wikipedia。この辺りの不可解なこだわりは、古代インド思想・仏教等の何等かの「時間」に対する感覚を表しているように思いますが、今ここで踏み込む余力がないのであきらめます。そして弥勒菩薩の出現ですが、「キリストの再臨」に似てなくはないのですが、しかし、はるか未来にやって来るというだけで、時間が終わる等の「終末論」ではありません。遥か彼方の弥勒の降臨という希望はあるものの無限の直線的時間が定義されています。
「末法思想」:「唐代の中国にあらわれ、平安朝院政期の日本でも流行した思想。これは一種の仏教史観で、歴史上の人物シャカの死を起点として、その後の歴史的時間を3期に分ける。第1期はシャカの正しい教え(正法・しょうほう)の行われた時代、第2期はそれに近い教え(像法・ぞうほう)の伝えられた時代、第3期は仏法の衰微した末法の時代である。第1期は500年とする説と1000年とする説がある。第2期は1000年、第3期は10000年である。日本で流行したのは第1期1000年説で、正法と像法の時代を併せて2000年、シャカの没年を定めれば、末法の始めを確定することができる(1052年)時あたかも平安朝末期の政治社会的危機に当たっていたから末法思想は急速に広く浸透した。」
同上
近代の研究ではシャカの入滅は北インドのクシナガラでB.C.483年が定説のようです。ただ、当時の日本ではB.C.949年がむしろ1052年の2000年前という根拠で流布したようです。どちらにしても1万年続くわけですから、上記、さまざまな社会不安から、この「末法思想」が流行ったということなのでしょう。仏教的時間観というよりは、仏教的史観です。当時は藤原氏の全盛期が続いていましたが、一族内の権力争いや地方での武士の台頭など、支配体制には徐々に不安要素が見え始め、後冷泉天皇(在位 1045-1068)の治世下で、天皇家と藤原氏の関係が微妙な時期に差し掛かっており、多くの貴族が阿弥陀信仰に帰依し、宇治の平等院鳳凰堂の建立が1052年になります。源信(恵心僧都・横川僧都)(942-1017)が『往生要集』㊟を著わすのが985年、法然(1133 – 1212)の登場にはまだ間がありました。
㊟『往生要集(おうじょうようしゅう)』:比叡山中、横川(よかは)恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。また、この書物で説かれた、地獄極楽の観念、厭離穢土欣求浄土の精神は、貴族や庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。―Wikipedia
平等院鳳凰堂(阿弥陀堂):当然修繕はしているが創建時の建物、国宝、世界遺産。宇治川の西岸にあった源重信(みなもとのしげのぶ・922-995)の別荘をその夫人から藤原道長(966-1028)が譲り受け、その子頼通(992-1074)が永承7年(1052年)、寺に改め、阿弥陀堂を建立。中堂、翼廊(両サイドの2つ)、尾廊からなる建物で、鳳凰が羽を広げたように見えることから江戸時代より「鳳凰堂」と呼ばれるようになった。安置されている阿弥陀如来坐像は仏師・定朝(じょうちょう・?-1057)作、国宝。
「空(くう)なるもの」:仏教にはまた時空間を「空(くう)なるもの」とする考え方もある。時間的および空間的距離は現実の一つの現れ方にすぎない。もう一つの現れ方は宇宙の一体性である。現実は距離(差別)としてみることもできるし、一体(唯一なるもの)として見ることもできる。万物は一であり、一は万物である。過去・現在・未来は永遠の今であり、永遠の今は過去・現在・未来である。この考え方は歴史的時間の概念の一つの類型ではなく、時間そのものの超越である。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』
上記、「空なるもの」で加藤周一がコメントしているのは、確かに一般的な仏教文化的時間観というよりは、仏教哲学的な世界観です。「万物は一であり、一は万物である。」は、まさしく、前回「No.41 冬至まぢかき「孫文のいた頃」追記」で扱った「華厳哲学」(米粒が宇宙であり、宇宙が米粒である)です。ただ、ここで、何となく理解しているようで、まだよく理解していない「空(くう)」という概念が登場します。この言葉は非常に重要なキーワードであり、その本質にどこまで迫れるかは分かりませんが、少し考察してみたいと思います。
結論から言うと、華厳哲学では、この「空」を基盤とし、すべての存在が相互に関係し合い、空間と時間は本質的に同一である、という論理を展開していきます。ただし、この概念についてさらに深く説明するとなると、私の力では到底及ばず、非常に困難な課題であることも否めません。それでも、この重要な「空」という概念を曖昧なまま、何となく使ってしまうのは気が引けるため、できる限り挑戦してみたいと思います。
このテーマを考えるにあたり、井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス ― 東洋哲学のために』を参考にしたいと思います。井筒俊彦(1914-1994)は、研究分野が非常に多岐にわたる学者で、30以上の言語に精通しており、一言で「○○学者」と定義するのが難しい天才です。
◆仏教哲学(華厳哲学)における存在論と時間論
日常的経験世界・「事(じ)」
日常的経験世界に存在する事物はそれらがそれぞれの己の範囲を守って自立し、他と混同されることを拒む。➡己の存在それ自体によって他を否定する。日常的経験世界では当然のことでしょう。
「AとBの間には〈本質〉上の差異がある。Aの〈本質〉とBの〈本質〉とは相対立して、互いに他を否定し合い、この〈本質〉的相互否定の故に両者の間にはおのずから境界線が引かれ、Aがその境界線を越えてBになったり、Bが越境してAの領分に入ったりすることはない。そうであればこそ、我々が普通〈現実〉と呼び慣わしている経験的世界が成立するのであって、もしそのような境界線が事物の間から取り払われてしまうなら、我々の日常生活は、それの成立している基盤そのものを失って、たちまち収拾すべからざる混乱状態に陥ってしまうでありましょう。」
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』岩波書店・1989年
「事」=上記のように存在論的境界線によって互いに区別されたもの。(いわゆる眼前の1粒の米粒)我々の通常世界です。
「空(くう)」「理(り)」「無(む)」日常的経験世界の区別・差別を無くす
「ところが、事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線をとりはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。〈もの〉と〈もの〉との存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。ということは、要するに、〈もの〉が一つもなくなってしまう、というのと同じことです。限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを〈無一物〉とか〈無〉とか呼ぶ。華厳哲学の術語に翻訳していえば、先に説明した〈事〉に対する〈理〉、さらには〈空〉がそれに当ります。」(同上)
「空(くう)」「理(り)」「無(む)」=上記「無差別性の空間」を覚知した境位
「事」↔「空」は存在の解体、したがって「言葉の否定」でもあります。
さて、「この境位が真に覚知された時」という表現が問題です。この「真に覚知」とは、いわゆる「悟りを開く」ということであり、通常の人間にとっては容易ではありません。特に禅宗では、本来「不立文字」とされ、「言葉を否定する」わけで、その境地を「言葉で説明する」こと自体が矛盾しています。そのため、「座禅」などの厳しい修行や訓練が必要とされるのでしょう。しかし、ここではともかく言葉で表現せざるを得ないので、私なりの〈米粒〉理論を用いて、この境地を想像・理解してみると、「事」とは「眼前にある米粒」であり、「空」とは「その米粒が持つ時間的・空間的な無限の背景ーすなわち何ものでもなく、同時に何ものでもある存在」と解釈できるような気はしますが…?でも「存在の空化・絶対無意味化」ってやはり違うようですね…。
勿論、米粒だけではなく、全ての「事・もの」が空(一切皆空)、すべてのものが「空」(無自性(むじしょう)とされています。この「自性(本質)」とは「事・もの」をそのものたらしめている本来的なそのものらしさ=米の米性、コップのコップ性のことであり、そしてこの「自性」こそが「妄念」だと言います。すると、ここで我にかえって、気付くのですが、ということは、自分自身、自己意識は「妄念」であり、それも「空」であるということです。さあ、大変です…自分の意識は勘違いということになります。(「米粒」に「自分」を置き換えると、いくらか理解できるような気はしますが…。)
「ここで〈自性〉の否定というのは、今問題としている仏教思想のコンテクストでは、〈自性〉が実在するものではなく〈妄念〉すなわち人間の分別意識〈存在を千差万別の事物に分けて見ずにはいられない認識主体〉の所産にすぎない。― お互いの間の分け目と消されたすべての事物は、おのずから融合して〈渾沌〉化し、ついには存在世界全体が〈一物もない〉無的空間に変貌してしまう。これが存在の〈空化〉、すなわち仏教的意味での存在解体プロセスの一応の終点です。」(同上)
さて、何とか理解できたような気もしますが、ここで普通に感じる疑問としては、何故〈自性〉の否定?存在の解体?自己意識の否定?などしなくてはいけないのか?ということではないでしょうか。おそらく、それは逆であり、「真実」に迫ろうとして、その結果、そんな考え方が生れたということでしょう。「真実」は我々の日常意識とはかなり違う…ということのようです。
「存在を〈空〉的に見るためには、それを見る主体、つまり意識の側にも〈空〉化が起こらなくてはなりません。意識の〈空〉が、存在〈空〉化の前提条件なのであります。ここで〈空〉化されるべき意識というのは、普通、仏教で〈分別心〉と呼ばれている我々の日常的意識のこと。」(同上)
そうなると次の問が当然のように出てきます。
「〈妄念〉、〈分別心〉、即ち存在分別的意識はどこから起こってくるのか。この意識の成立の基盤をなす事物の〈自性〉妄想は何によって惹き起こされるのか。先に私は、意識の〈空〉化が存在〈空〉化の前提条件であると申しましたが、意識の〈空〉化は、この問いにたいする正確な答えが突き止められないかぎり、実現不可能であるはずです。もし〈自性〉なるものが実在せず、従って事物の自己同一的実体性も存在論的虚像にすぎないとすれば、そもそも何に唆(そそのか)されて意識はそのようなものを分別し出すのか。それが重大な問題となってくるのであります。この問いにどう答えるか。答え方のいかんによって、哲学が決定的に性格づけられてしまいます。」(同上)
そして、井筒俊彦の答えは意外にわかりやすく、下記です。
「仏教にかぎらず、一般に東洋哲学には、言語にたいする根深い不信があることは皆様ご承知のことと思いますが、この場合、華厳も、ナーガールジュナ(龍樹)以来の伝統に従って、言語を〈妄念〉の源泉と考えます。人間の意識の働きは、コトバによって根源的に支配されている。コトバというより、もっと正確には〈意味〉の支配です。」(同上)
なるほど、ついに「言葉」の問題が出てきました。学生の頃に「禅宗」の勉強をほんの少しして、その時に「不立文字」や「座禅の意味」、「公案」と「言葉・意味」との関係を考えたことはありましたが、「言葉・意味」を否定した先にあらわれるのが「空」、「言葉・意味」の対立概念が「空」と言えるようです。
さて、今回、「文化によって異なる時間の概念」をテーマに考え「仏教の時間観」まで来て、避けて通れない「仏教哲学」の中、日常的にも、意外によく見聞きする「空」の登場で、これに引っ掛かってしまいました。
我々の日常的な経験世界に存在するものは、「言葉」によって秩序が保たれています。しかし、「華厳哲学」では、実はそれ自体が「妄念」であり、「勘違い」であり、そのため、こうした「存在」を一度解体しなければならない、という考えにたどり着きました。
次回は、この「存在の解体」の続きを考察します。その先に何があるのか、「存在」とは「すべてのものが全体的な関連の中でのみ存在している」(同上)といことらしいのですが、その点を確認し、さらにそれが「時間」と同じであるらしい、というところまで考えてみたいと思います。そして勿論、目指すは「日本的時間観」です。
なるべくわかりやすく書こうと努力しましたが、歯が立ちませんでした。次回はもう少し工夫したいと思います。ただ、ご興味のある方はぜひ、〈井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ― 東洋哲学のために』岩波書店・1989年〉を直接お読みいただき、考えてみてください。
以上
2024年12月
追記 ▶井筒俊彦と意味論と西脇順三郎と詩
さて、前回No.41の追記末尾で、「今回初めて訪れた、敦煌市中心から西に50~60キロ離れた「陽関」と「玉門関」と「漢長城」と唐詩について語りたいと思います。」と予告したのですが、今回のコラム本編を受け、表記のテーマに急遽変更しました。本編が超重かったので、なるべく軽くしたいと思っています…。
井筒俊彦(1914-1993)は様々な伝説のある天才学者で、司馬遼太郎(1923-1996)はある対談の中で彼について「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は20人くらいの天才らが1人になっているなと存じあげていまして。」(『二十世紀末の闇と光』1993年、中央公論)と述べています。
この、30数ヵ国語に通じているという「20倍天才碩学」が名前だけでも、一般的にあまり知られていないのは、おそらく…本来の意味での「一般書」を書いていないからということは、少しは影響があるのかもしれません。しかし、このコラムのどこかでも言及しましたが、これまで散々引用している、白川静(1910-2006)、石川九楊(1945‐)も同様で「スタンダード権威」から、外れていたために評価が遅れた、遅れている、とは思います。この稀代の碩学「井筒俊彦」もやはり同様なのかもしれませんが、最近はさすがに没後20年となり井筒俊彦自身についての研究書、著書の解説書までたくさん出ています…。
以下は彼の大学生時代の回想です。それにしても、確かに、こんなことを考えている研究者がいれば、当時の権威言語学者は顔色無し…であったかとは想像できます。
「しかし専門家の嫌いな私も皮肉なことにとうとう自分の専門を決めなければならないことになった。専門家でない学者などというものは存在しないし、また世間にも通用もしない。もし学者として立ちたいなら何か一つの専門を選ばなければならない。本質的には馬鹿げたことだが、それが人の世というものである。そこで私は、できるだけ広く、少なくともなんでも好きな言葉を勉強する自由だけはある学問として言語学を自分の専門に選んだ。第一、私は外国の言葉がやたらに好きだった。いろいろな言葉を習得して、その言葉で書かれた詩や小説を読む、そこに無上の喜びがあった。そのうち病膏肓に入ってとうとう文学的価値のないバビロニア、アッシリアの碑文のようなものすら、私にとっては無限の楽しみのたねとなるに至った。いろいろ違った系統の出来るだけ多くの言語を学んだ上で、その基礎の上にのみ理論的学問としての言語学は本当に生きた学問として成長する、というのが私の口実だった。」
井筒俊彦『回想の厨川文夫』1979年1月
また、井筒俊彦を知るのに下記のコメントは、わかりやすいかもしれません。
「井筒さんにとって、生涯衰えることのなかった好奇心は、人はなぜ言葉をつかうか、ということであったろう。さらには、言葉とはなにか、世界の言語はなぜ多様なのか、言語が思想をうむのか、もしくは思想が言語をうむのか、また言語と文明はどのようにかかわるのか、ということに発展したはずである。言語はいうまでもなく、いちいち意味をもっている。言語は、意味でもある。意味論は、井筒さんの大学での専攻学問だった言語学の一部門でもある。言語学は音声学や音韻学という、物理的要素の濃い分野をふくむが、意味論となると、哲学そのものになる。音声学や音韻論は、耳がよくて論理の把握力にも超人的だった井筒さんにとって乳児食(現代フランス語は数ヶ月でマスターしフランス人ネイティブと変わらない発音ができた)のようなものだったかと思えるが、意味論にいたっては、井筒さんにとって、別の場所での井筒さんの表現を借りれば〈蠱惑・こわく〉に充ちた世界であったらしい。」
司馬遼太郎『アラベスク-井筒俊彦を悼む』1993中央公論
さて、彼の専門であった「意味論」です。「言葉」は「意味」であり、即ち「言葉とは何か?」という学問です。しかし、一方、今回の本論で考察したように、この意味論学者は下記(上記)のように言葉を否定します。
「仏教にかぎらず、一般に東洋哲学には、言語にたいする根深い不信があることは皆様ご承知のことと思いますが、この場合、華厳も、ナーガールジュナ(龍樹・りゅうじゅ)以来の伝統に従って、言語を〈妄念〉の源泉と考えます。人間の意識の働きは、コトバによって根源的に支配されている。コトバというより、もっと正確には〈意味〉の支配です。」
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』岩波書店・1989年
No.42梅もまぢかき孫文のいた頃
そして「言葉・意味」を否定した先に出現するのが「空」でした。即ち「言葉・意味」のひとつの対立概念が「空」でした。井筒俊彦はこの「空」を仏教哲学からではなく哲学・意味論側(事物と言葉・名前と存在の関係)からも説明しています。彼はサルトル(Jean Paul Sartre・1905-1980)の有名な小説「嘔吐・La Nausée・1938)を引用して説明します。
「無数の〈本質(我々が通常認識している<もの>の意味)〉によって様々に区切られ、複雑に関連し合う〈本質〉の網目を通して分節的(様々に名付けられている)に眺められた世界。そしてそれが我々の日常世界であり、また主体的には、現実をそのような形で見る我々の表層意識(日常意識)だけに限って考えるなら、意識とは事物事象の〈本質〉を、コトバの意味機能に従いながら把握するところに生起する内的状態であるといわねばなるまい。」
井筒俊彦『意識と本質‐精神的東洋を索めて』岩波書店1983
我々の通常生活の中では「コトバ」を無意識に使用して世界を意味づけて普通に生活しています。ところがその「コトバ」より以前に「コトバ」によって、隠されている、抑え込まれている「存在」というものがあります。その「存在」のことを「空」といったり、また「嘔吐」と感じてしまったりするようです。
「Xを何かであるものとして把握することは、すなわちXの原初的定義(言語による定義)であり、最も素朴な形における〈本質(我々が通常認識している<もの>の意味)〉把握以外の何ものでもない。もしこのような原初的〈本質〉把握もなしに、ただやみくもに〈外〉に出ていけば、たちまちあの〈ねばねばした〉目も鼻もない不気味な〈存在〉の渾沌の泥沼の中にのめり込んで、〈嘔吐〉を催すほかはないだろう。そして、そうなればもう、〈…の意識〉など影も形もなくなってしまうだろう。
〈存在〉の深淵を垣間見る嘔吐的体験を描くとき、サルトルがこの〈存在〉啓示の直前の状態として言語脱落(Xに対して言葉を通しての理解ではなく、名前を失う、意味を失う状態)を語っていることは興味深い。
〈ついさっき私は公園にいた〉とサルトルは語り出す。〈マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語(ことば)は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒(めじるし)の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生(なま)のままのその黒々と節くれだった、恐ろしい塊りに面と向かって座っていた。〉
絶対無分節(言葉を否定した)の〈存在・マロニエの根〉と、その表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線(言葉)を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働き(ともかく言葉を使用して事物を捕えようとしている)との関係をこれほど見事に形象化した作品を私は他に知らない。」
同上
つね日頃目にしている、なんでもないマロニエの木の根が、何らかの理由で、言葉、意味付けが出来なかった時(言語脱落)、それは、初めて見る「存在そのもの」として出現して、それに衝撃を受け「嘔吐を催した」ということです。ならば当然出て来る疑問として、それでは何故、仏教ではそれが「嘔吐」ではなく「空」(≒自由)として捉えることが出来るのでしょうか?そして、実はこの「自由」(≒空)についてのサルトルの考え方も大変興味深いものがあるのですが…。これは次回に。
「これに反して東洋の精神的伝統では、少なくとも原則的には、人はこのような場合〈嘔吐〉に追い込まれはしない。」
同上
やれやれ…井筒俊彦のエピソード的なものを紹介しようと思ったのですが、途中から、何やら、屋上屋を架してしまっただけのような、中途半端にまた本編の続きに戻ってしまいました。気になる上記の続きはまた次回の本編で考えたいと思います。
実は、井筒俊彦にまつわるエピソードとして、私がぜひ取り上げたいと思ったのは、私が大好きな西脇順三郎(1894-1982)との関係でした。ちなみに、西脇順三郎、また彼の作品『ギリシア的抒情詩』は、現在でも高校3年生の現代国語の教科書に掲載されているようなので、ご存じの方も多いかもしれません。
「青春の意気にはやり立って大学に入った私の前に、無数の先生たちがずらりと居ならんでいた。だが、誰一人私を満足させなかった。私は失望した。学問とはこんなものだったのか。おそらく私は学者などというものになることを、あっさり思い切っていたことだろう。もしもあの時、たった一人、本当にこれこそ先生だと感じるような人物に出逢っていなかったならば。西脇順三郎 -『詩と詩論』(1928-33年に7冊が刊行された文芸雑誌)などを通じて、私はその名を中学時代から知っていた。飄々と歩くその人自身の姿を、三田山上に、初めて見たとき、私の心は踊った。慶應義塾、経済学部予科時代のことだ。」
井筒俊彦『追憶ー西脇順三郎に学ぶ』・1982
確かに西脇順三郎は慶應義塾で「言語学」や「英文学史」を講義しており、論文があるのも知っていましたが、井筒俊彦が西脇順三郎を「西脇先生を生涯ただひとりの我が師と思っている」(同上)、と評している西脇順三郎の学者、教育者としての一面、そして井筒俊彦は卒業してから西脇教授の助手となり、その後、その言語学講座の後継者になったという師弟関係を、今回初めて知り、感動するとともに、とても嬉しくなりました。
「西脇先生の詩論のなかで私は、言語についての、いかにも詩人的な感受性の繊細さを偲ばせる考察を見出した。それが何ともうれしかったものだ。コトバというものの底知れぬ深さに触れた。コトバにたいする強烈な立体的関心が、そんな経験を通じて、私の内部でひそかに育まれていった。」
井筒俊彦『西脇先生と言語学と私』・1983
最後に、感動ついでに、西脇順三郎の『ギリシア的抒情詩』は有名ですが、それほど有名でもなく、季節外れではあるけど、しかし、私が大好きな短編詩を挙げておきます。
秋
Ⅰ
灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えてる間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた
Ⅱ
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ
西脇順三郎『近代の寓話』1953年
この詩を初めて読んだのは大学生の頃、もう50年近く前になります。特にIIについて、未だに理由はよくわかっていませんが、読んだ時に涙が出てきました。そして、その時の衝撃と感動は未だに続いているように思います。そのわずか数年前、高校3年の現代国語の教科書に載っていた『ギリシア的抒情詩』については、当時の私は、印象的ではありましたが、あまり感動もできず…反応としてはイマイチだったのですが…。皆さんはどうだったでしょうか?
因みに井筒俊彦が慶應義塾経済学部予科から本科文学部に移つり、西脇先生の謦咳に接するのは、西脇順三郎がその『ギリシア的抒情詩』(昭和8年・1933)を初めて発表した翌年の昭和9年・1934です。それは、孫文の逝去から7年…満州事変の2年後…日本も中国も大変な時期でした。時に井筒俊彦20歳、西脇順三郎40歳です。
当時の慶應義塾の教壇に立つ西脇教授と、その講義を傾聴している井筒塾生を想像すると、ドラマの1シーンのようでもあり、何となくワクワクするような、せつないような気もします。
【西脇順三郎『ambarvalia』昭和8年・1933 椎の木社】復刻版(昭和41年・1966 恒文社)
上記では便宜上、高校の現代国語に登場する西脇順三郎の詩を「ギリシア的抒情詩」と表現しました。しかし、正確には、詩集『Ambarvalia(アムバルワーリア)』の冒頭に「ギリシア的抒情詩」というタイトルの下、11篇の詩が収められています。その中から、教科書では『天気』、『雨』、『太陽』、『皿』などが掲載されています。因みにこの不可解な詩集のタイトルはラテン語で古代ローマの農業の女神を祀る儀式の名称です。彼自身が「私は若い時から土俗(民族)学に興味があって古代人の宗教に対して非常に詩的なあこがれをもっていたために近代人にはわからないような名をつけた」(『近代人の憂鬱』・1966)と語っています。西脇順三郎の詩集はどこでも簡単に手にはいりますから興味のある方は是非読んでみてください。
最後に、「ギリシア的抒情詩」の中から、確かに高校の教科書には掲載できないであろうしかし、私の大好きな1篇を取り上げて、この辺でいい加減止めます…。
菫(すみれ)
コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする。
「灰色の菫」というバーへ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。