国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑧
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.8 まだ「孫文のいた頃」
前回、石橋湛山(1884-1972)の話をする予告しました。時代の勢いに逆らい当時の日本政府の方針であった「対支21ヶ条要求」に反対した中野正剛、北一輝とは別に、やはり、この方針に異を唱え、後、1956年に第55代の首相になる石橋湛山ですが、当時はまだ30歳そこそこのジャーナリストです。
石橋湛山(1884-1973)は日本敗戦後7人目の首相であり、自由民主党第2代の総裁であった。生前「石橋湛山全集」全15巻が、東洋経済新報社より刊行された。一国の首相がこれだけ著作をのこしたことは、世界史上まれであろう。湛山が多年「東洋経済新報社」に論陣を張った結果がこれだけの分量となったのであるが、その内容は日本にほとんど比類のない自由主義の論調に貫かれている。
石橋湛山評論集(岩波文庫1984年)「解説」松尾尊兊
石橋は1911年1月、またしても奇遇なことに、このJYDA/HSKオフィスから500メートルも離れていない、当時の牛込天神町6に本社のあった「東洋経済新報社」に入社します。そして青島のドイツ軍全面降伏の11月7日から1週間後の1914年(大正3年11月15日号)に「青島は断じて領有すべからず」を社説として発表、また「対支21ヶ条要求」についても袁世凱が承認する1915年5月9日の数日前に「禍根をのこす外交政治」と題して下記で始まる「社説」を掲げています。
「吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根を残すものといわねばならぬ。」
「禍根をのこす外交政治・1915年5月5日号・社説」石橋湛山評論集(岩波文庫1984年)
文字通り、当時の「外交政策」を糾弾する社説ですが、社説ですから、それほどの分量ではなく岩波文庫で8ページ程です。論旨としては上記2点への批判ですが、もう少し詳しく解説すれば、「そもそも、日英同盟があったとはいえ、第一次世界大戦への参戦(ドイツ占領下の山東省・青島、南洋諸島攻略)それによる戦争経費膨張、敵・味方の人命損傷、青島領有化、その維持のためのさらなる陸海軍拡張、ドイツからの大反感、それは日英同盟継続の不安要素ともなり、さらに加えて高圧的・威嚇的な「対支要求」…これでは、すでに巻き起こっている中国における日本に対する憎悪感の加速、さらに、今、第一次世界大戦で混乱してはいるが近いうちにヨーロッパの、そして無傷のアメリカの大反感を必ずかうことになり、結局、全てを失うことになる。」と、ほぼ予言めいたことまでが書かれています。
「我が朝野の挙国一致論は、いかに横車を引いても我が国の利益になりさえすればよい。支那の独立や、支那人の希望の如き、毫も眼中に置くの要なし、これを破却し蹂躙して可なりというのであろうか?吾輩は対支交渉開始以来、邦人が調子を揃えて支那を侮蔑し、恫喝した軽薄、無遠慮、不謹慎な言論に冷汗をかかせられ、つらい思いを今もさせられつつある。」
「禍根をのこす外交政治・1915年5月9日」石橋湛山評論集(岩波文庫1984年)
さて、このわずか8ページの短い文章、本当は全文を引用したいところですが、しかし、特に私が気になったのは「領土侵略政策」、「軽薄なる挙国一致論」が随所に出てくることです。つまりレベル低き「衆愚」とそれを煽動する「新聞(マスコミ)」に対する怒り、批判があります。以下は最後の結びです。結論は勿論、首相、外相という政治家になってはいますが…。
「これ吾輩の『対支外交』を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。而してこの大禍根は、遠く日清戦争、就中(なかんずく)日露戦争から顕著になった我が国の領土侵略主義に発すといえども、これを上記の如き恐るべき危険点に持ち来すものは、実に国民全体の不心得の結果ではあるが、しかし、その直接の責任は、国民指導の位地にある現内閣諸侯、就中大隈首相と加藤外相の失策にあるといわねばならぬ。」
「禍根をのこす外交政治・1915年5月9日」
確かに、当時、「国民全体が不心得」だったのでしょう。日本は、第一次世界大戦で混乱していたヨーロッパへの軍需物資供給の景気に沸き、皆さんも歴史の教科書などで見たことがあるのではないでしょうか?料亭の玄関が暗いので、当時の百円札を燃やして「どうだ明るくなったろう」と芸者さんに語りかける「成金オヤジ」を描いた和田邦坊の「成金栄華時代」という風刺絵です。さすがにこの風刺画は、誰もが行き過ぎであると感じると思いますが、しかし、それは2022年の2月、今もなお我々が抱えている「資本主義社会」の問題、「民主主義社会」の問題…「お金」とそれをめぐる「人間」の問題ですね。この全世界を挙げての帝国主義時代に対して、社会主義、共産主義が台頭してくるわけですがそれはまた別の話です。
このコラムでは延々と過去を振り返っていますが、もし依然として、今、只今の問題でもあるなら、振り返る意味はあるでしょう。
さて1915年「対支21ヶ条要求」について石橋湛山が評した「軽薄なる挙国一致」、「朝野の挙国一致」、「国民全体の不心得」の話でした。これが所謂「大正デモクラシー」(民主主義社会の風潮)とどこまで関係があるのか、考えてみたい気もするのですが、残念ながら私の能力を超えています。当時の日本に蔓延していたこの「国民全体の不心得」の遠因は、この10年程前、「日比谷焼き討ち事件(明治38(1905)年9月5~7日)」に遡るようです。
「日比谷焼き討ち事件」とは、日露戦争の終戦条約の「ポーツマス条約」に反対した上記のような国民の暴動です。司馬遼太郎はこの事件を下記のように分析しています。
「私はポーツマスの町で、1905年(明治38)の『ポーツマス条約』について考えている。とくにその後の日本をあらあらしく変えてしまったことについてである。むろん条約そのものの罪ではない。
ロシアからもっとふんだくれるかと思っていた群衆が、意外にとりぶんのすくない講和条約に激昂し暴動化した。 ― むろん、爆発にいたるまでには、揮発性の高い言論が先行している。東京帝大法科大学の七人の教授の会というものがそうで、かれらは講和条約の意見書をきめていた。巨大な償金と領土割譲の要求がそれで、それが容れられなければあくまでも戦争を継続せよというおろかしいたぐいの主張だった。 ― ほとんどの新聞が、右の七博士と同意見だった。かれらは、ひとびとを煽った。小村(寿太郎)がウィッテとポーツマスにおいて条約をきめるや、紙面をあげて政府攻撃をした。
かれらの錯覚は、無知からきていた。
たしかに政府は、戦争の真の実情についての情報をわずかしか新聞社にわたさなかったことはたしかである。しかし、たとえわずかな量でも、読みこみによって十分真実を感ずることができるのである。要は、真実を知ろうとするよりも、錯覚に理性をゆだねるほうが甘美だったのである。 ― 九月五日の日比谷公園での反対大会では「嗚呼大屈辱」とか「吾に斬奸の剣あり」とかといった大文字が使用された。当日、三万以上の群衆が公園にあつまり、警官隊と大乱闘になった。かれらの一隊は大臣官邸になだれこみ、ついには軍隊の出動までみた。他の一隊は警察署、分署、派出所など二百余施設を焼き、十六台の市電も焼いた。また、多くのキリスト教会を襲撃し、破壊し、とくにアメリカ人を目標とした。アメリカ人牧師を襲うだけでなく、米国公使館を襲い、投石した。私は、この理不尽で、滑稽で憎むべき熱気のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。」
「アメリカ素描 第2部-明治の心」(読売新聞1985年9月28日―12月4日)(新潮文庫1989年)
この司馬遼太郎の「私は、この理不尽で、滑稽で憎むべき熱気のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。」という表現のなんと適確なことかと思ってしまいますが、皆さんはどうでしょうか…。この時点において、政府・軍部の暴走というより、『民衆(司馬遼太郎は「熱気」という表現をしていますが)の中から』生まれて、そしてこれが10年後に「対支21ヶ条要求」となり、さらにその30年後にポツダム宣言受諾へと繋がっていくのではないでしょうか…。
別に私は「司馬史観」信奉者ではないのですが、まあ、ともかく彼は世界が帝国主義時代の中にあるなか、日露戦争までは祖国防衛戦争であったと定義します。
「たとえば日露戦争をしないという選択肢もあり得たと思います。しかし、ではロシアがずるずると朝鮮半島に進出し、日本の眼の前まで来て、ついに日本に及んでもなお我慢 -戦争をしないこと- ができるものなのか。もし我慢すれば国民的元気というものがなくなるのではないか。これがなくなると国家は消滅してしまうのではないか -いまなら消滅してもいいという考え方もあり得るでしょうが- 当時は国民国家を持って三十余年経ったばかりなのです。新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。」
「この国のかたち 第4巻-日本人の二十世紀」
しかし「祖国防衛戦争」のはずの「日露戦争」終結の「ポーツマス条約」を「種・因」として、「日比谷焼き討ち事件」が生まれてきます。そしてそれが何故?1905年の「日比谷焼き討ち事件」から1915年の「対支21ヶ条要求」までに成長してしまったのか‥‥やはりどうも辛い話になっていきますが、もう少し考えてみたいと思います。そして司馬史観とは別のそれ以降の戦争も「欧米列強の植民地支配からの民族解放戦争」であったという考え方もあり、そう信じて、そのために行動した人々も決して少なくなかったと思います。
以上
2022年2月
追記
石橋湛山の登場で少し気分が軽くなるかと思ったのですが、残念ながら、まあ歴史の結果を考えれば当然ですが重くなる一方でした…。しょうがないのでちょっと気分を変えて、別方向から当時を振り返ってみます。
「対支21ヶ条要求」で日本が沸騰していたその頃、永井荷風(1879-1959)は「日和下駄 一名東京散策記」と題する随筆を、1914(大正3)年8月~1915(大正4)年6月までの11回にわたり「三田文学」に連載していました。
急激に変化していく東京市中を、明治12年生まれの荷風が、彼の生まれる10数年前までは存在していた江戸の街並みを想い、11のテーマ「日和下駄」「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕日」から、カラカラと日和下駄を鳴らし東京市中を散策して書かれた「東京市」と「江戸」を往還する「散策・探訪記」であり、また「文明批評」でもあり、目の覚めるような美しい文章で書かれています。
目に青葉山時鳥初鰹。江戸なる過去の都会の最も美しい時節における情趣は簡単なるこの十七字に言い尽くされている。北斎及び広重らの江戸名所絵に描かれた所、これを文字に代えたならば、即ちこの一句に尽きてしまうであろう。
永井荷風「日和下駄・第三『樹』」
さて、この「日和下駄」の最終第十一章「夕日」の末尾に“羅臥雲”という「清国人」が登場します。
十余年前、楽天居小波山人の許に集まるわれら木曜会の会員に羅臥雲と呼ぶ眉目秀麗なる清客があった。日本語を善くする事邦人に異らず、蘇山人と戯号して俳句を吟じ小説をつづりては常にわれらを後(しりえ)に瞠若たらしめた才人である。故山に還る時一句を残して曰く
行春の 富士も拝まん わかれかな
蘇山人湖南の官衙にあること歳余病を得て再び日本に来遊し幾何もなくして赤坂一ツ木の寓居に歿した。わたしは富士の眺望よりしてたまたま蘇山人が留別の一句を想い倜悵としてその人を憶うて止まない。
君は今 鶴にや乗らん 富士の雪
永井荷風「日和下駄・第11-『夕日』」
上記、「楽天居小波山人の木曜会」とは文人、巌谷小波を中心とした文藝サロンです。そして、ここにある、荷風が羅臥雲と交流を持った「十余年前」ということは1900年頃になります。
羅臥雲(1881―1902)俳号「蘇山人」は明治俳壇中、唯一の外国人俳人です。清国公使館の通訳官・外交官を父に持ち、麹町区永田町の清国公使館付近に住んでいたようです。
孫文の初来日は1897年、当時、革命家として、清国政府からの「指名手配犯・お尋ね者」の彼はたまたま清国公使館の付近に住まいを世話され、結果、当然居にくいので犬養毅の助力で早稲田に移るわけですが、その頃に16歳の羅臥雲少年とすれ違ったことがあったのでしょうか。
羅臥雲は俳句雑誌「ホトトギス」への俳句投稿で選者の正岡子規を驚かせ、その後、子規の根岸の俳句サロンにも出入りしています。しかし、残念ながら、この天才清国文学青年は22歳で夭折します。
子規の追悼句 ― 蝶飛ぶや蘇山人の魂(たま)遊ぶらん
虚子の追悼句 ― 春雨や唐撫子(からなでしこ)の死を悼む
さて、ここに、私にはちょっと意外な感じをもった羅臥雲の俳句と漢詩があります。
寒夜史に 泣くや燈火 豆の如
寒夜讀史
寒風浙瀝夜窓虚
憤涙欲澆燈下書
不是秦庭三日哭
方城漢水総邱墟
これは言うまでもなく、敗亡と戦禍の悲哀をなめつくした故国を詠う詩句である。わが境遇に照らして史書を読み返し「秦庭」「漢水」=中国のことを思い起して憂国の情がますます深くなり、思わず落涙した。この作品が作られた明治32年(1899年)前後には、列国の中国侵略に反抗する義和団が蜂起し、それを日本や欧米列強八ヶ国の軍が共同出兵で鎮圧した北清事件が起こった。滅び行く祖国の前途への憂慮を覚え、断腸の思いと悲壮な誠心がにじみでているこの詩句は、蘇山人の意識の深層に根深く横たわる心情の一面を代表しているのではないかと思われる。
劉迎・徐州師範大学特任教授「蘇山人句における詠史の意味」2011年
羅臥雲を調べてみて、WEB上で、劉迎氏の「蘇山人句における詠史の意味」を見つけました。それまで私は「日和下駄」に登場する羅臥雲と彼のいくつかの俳句しか知らなかったので、勝手に耽美系の天才文学青年のイメージしかなかったのですが、魯迅と同い年である彼も、祖国・清国を愛し、その厳しい状況をこのように憂慮していたことを知り、非常に感慨深いものがありました。まあ清国の外交官の息子であれば当然なのかもしれませんが…。
因みに劉迎氏の解説で俳句、漢詩の概要的意味はわかるのですが、語句の詳細を知りたくなり、調べてみたのですが、よくわからないところもあり、しかし、友人の中国人日本文学者、李國寧氏の教えにより、下記のように明解に理解できました。
寒夜史に 泣くや燈火 豆の如
「寒い夜に歴史書(春秋左氏伝の申包胥の個所)を祖国・清の運命と重ねあわせ、嘆き憂いながら、ランプの灯が豆のように小さくなってしまうまで読んでいたら、泣いてしまった。」、という意味になるかと思います。
さらに漢詩では、これをさらに説明するように詳しく表現しています。
「寒夜読史」 「寒夜に史を読む」
寒風浙瀝夜窓虚 寒風、浙瀝(せきれき)として夜窓虚し
憤涙欲澆燈下書 憤涙、澆(そそ)がんと欲す、燈下の書
不是秦庭三日哭 是れ、秦庭に三日哭せずんば
方城漢水総邱墟 方城、漢水、総て邱墟とならん
「秦庭の哭」という故事が「春秋左氏伝」、「史記列伝」にあります。春秋時代、楚が呉に滅ぼされかけた時、楚の申包胥が秦の哀公に援軍を求め、秦の宮庭で七日七夜泣き続け、秦の哀公の心を動かし、援軍を出してもらうことができ、楚を救う話です。
「申包胥は秦へ向かい危急をうったえ、救いを求めたが、許されなかった。包胥は秦の王の庭先で昼も夜も泣きつづけ、七日七夜、哭することをやめなかった。秦の哀公はあわれに思い『楚の王は無道であったが、かような家来がおろうとは。国をたやさぬようにしてやらねばなるまい』と言い、戦車5百台を派遣し楚を救援、呉を打たせた。」
史記列伝-伍子胥列伝・第六・小川環樹訳(岩波文庫)1976年
北風が窓を打つ寒い夜に、史書、即ち、春秋左氏伝か史記・列伝のこの個所を読み返します。「義和団事変」の知らせが入り、その個所を思い出したのかもしれません。
義和団が北京を占拠、清国政府(西太后)も義和団に同調します。それに対し日本も含めた列強8ヶ国の「外国の軍隊」が祖国の首都北京に派遣され、その北京を舞台に、「列強の邦人保護」の名の元に、「義和団事変」は軍事的に鎮圧されます。北京占拠の期間は55日間であったといいますが、祖国の首都・北京の惨状を嘆いても、勿論、彼になにができるわけでもありません。「どこに助けを求めたらよいのか?」「秦庭三日哭」(7日もの悠長な時間はない、3日で…?)を「どこか⁈」に訴えないと、しかし「楚を救ってくれた“秦”」はどこにもなく、そうであるなら、祖国は滅びてしまうではないか!…という煩悶・苦悩の「詩」でしょう。
因みに「方城」と「漢水」は、ともに、楚の国のことで、「楚国方城以爲城 漢水以爲池」(春秋左氏伝)(楚国は方城を以て城となし、漢水を以て池と為す)という言葉があります。
北京占拠は1900年6月20日で、終結を見るのが8月14日です。「寒夜」とありますから、事変が伝わり、その冬に詠んだとすれば、羅臥雲はまだ18~9歳の青年です。
さて、羅臥雲の「楽天居小波山人の木曜会」への初参加は1898年1月(中村忠行「辮髪の俳人羅蘇山人」)ですから羅臥雲17歳です。そして彼がその「木曜会」を荷風に紹介します。さらに、羅臥雲を荷風に紹介したのは荷風の友人・大山吾童…まあ、彼らも今日の大学生のように、友達のつながりで知り合あったようです。因みに荷風はこの時19歳、官立高等商業学校附属外国語学校清語科(当時は「清語」と言ったんですね…)の2年生でした。
そして、荷風が三田文学に連載した「日和下駄」に羅臥雲が登場する最終章「夕日」の発刊は1915年6月です。全く同時期の石橋湛山の「禍根をのこす外交政治・1915年5月5日号・社説」を読んでいたかどうかわかりません。しかしこの「対支21ヶ条要求」の「軽薄なる挙国一致論」で日本が沸騰していた時期であったからこそ、荷風は、日本の去り際に「行春の 富士も拝まん わかれかな」の美しい句を残し、両国の行く末を憂慮し夭逝した畏敬すべき清国の友人を思い出さざるを得なかったのでしょう。
君は今 鶴にや乗らん 富士の雪
秋庭太郎「考証 永井荷風」1966年(岩波書店)より
下記「考証 永井荷風」に上海撮影とあります。「日和下駄」にあるように、羅臥雲が上海に「官衙」(官吏として就職した)時期は、明治32年(1899年)初夏です。
「病を得て再び日本に来遊し幾何もなくして赤坂一ツ木の寓居に歿した。」
治療のために日本に戻るにはその年の10月です。そして没したのが明治35年3月24日です。そうであれば写真は18歳頃です。確かに荷風の言うように「眉目秀麗」そして当然ですが「辮髪」「支那服」、町なかでも、句会でも人目を引き、それはカッコよかったでしょう。
「太田南岳もまた、『眉目青秀の逸材であった。夙に俳諧を好んで交わりを四方に求め・‥或る日彼と…亀戸に梅見に出かけ…吟詠はなはだ務めた。来かかる人々が見な立って彼の風采に見とれているのである。彼が支那人否日本人にも稀に見る好男子で業平もかくやと忍のばるる風采であったからである。』と書いていて、蘇山人の美貌を讃えている。私は中村忠行氏*から贈られた上海で撮影した蘇山人署名入の写真を2葉所蔵してる」
秋庭太郎「考証 永井荷風」1966年(岩波書店)
*中村忠行・国文学者・天理大学名誉教授(1915-1993)
そして、そうであるなら、「寒夜読史」は赤坂一ツ木で病療養中の作ということになります…
永井荷風家族写真-1897(明治30)年10月17日 於上海(東京江戸博物館蔵)
この年9月に上海への家族旅行が記録に残っています。4月に荷風の父、永井久一郎の日本郵船会社の上海支店長就任したことに伴うものです。永井壮吉(荷風)は18歳です。この羅臥雲より2歳年上の荷風が彼に出会ったのはこの頃になります。
奇しくも二つの写真は上海で撮られていますね…